297人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ
その男性社員は課長のワークデスクの前で軽率な会釈をしただけで悪びれた風もなく秋良のデスクの方へと歩いて来た。途中で気の弱そうな眼鏡を掛けた男性社員の頭を手に持った書類で軽く叩く、その姿は遠慮なく太々しい。
「おっはようございます!」
「はいはいおはよう、伊藤くんいい加減にしないと始末書書かされるわよ」
「なんの始末書ですか」
「ポンポン叩いて、パワハラよパワハラ!」
「パワハラぁ?あれは愛情表現ですよ、愛情表現」
伊藤と呼ばれた男性社員は自分のデスクの前に見慣れない顔が座っている事に気が付いた。そして椅子にどっかりと腰掛けると肘付に腕を投げ出し脚を組んで一回転した。
(ーーーな、なによ)
デスクに積まれた書類の山から秋良を覗き見た。
「あんたか、富山の田舎もんは」
「い、伊藤くん!なに言ってるの!」
「田舎じゃん」
「新幹線だって停車するのよ!」
秋良はこの扱いには慣れていた。金沢市の人間は富山県民を<越中さ>と呼び富山県民は金沢市民を<加賀者>と呼ぶ。それは何百年も前の前田家のお家騒動が起因らしいが下らない諍いだ。
(そんな事言うあんたの方が田舎もんじゃないがけ!?)
秋良は内心眉間に皺を寄せたが精一杯の作り笑いで対応した。するとその伊藤は秋良の事を男性だと思ったらしく「女々しい顔だな」「俺の方がイケメンだろ、な?」と隣の年配女性社員に詰め寄っていた。
「伊藤くん」
「なんですか」
「その新人さんは」
「なんだよ」
「お、女の人なのよ?」
男性社員は素っ頓狂な叫び声を上げて椅子をずらすと秋良の足元を見た。その視線は黒いパンプスから舐めるように脚を伝いタイトスカートと胸の膨らみを確認すると一歩後ろに退いた。
「お、おんな」
「伊藤くん、なんで見て分からないの」
「こんなの違反だろ、分からん」
「伊東さんに謝りなさいよ!」
「そんな男みたいな女がいる方がおかしいだろ!」
「伊藤くん!」
そこで伊藤は立ち上がり遠慮なしに秋良の胸元のネームタグを手に取った。この遠慮の無い急接近に秋良は尻込んだ。
(な、なにこの人、図々しい!)
「なんだ、俺と同じいとうじゃん」
「そ、そうですね」
「俺の名前は伊藤翔吾、翔吾さまって呼んで」
「しょ、しょーーーうご」
「なに、翔吾さまだろ」
逆三角形の輪郭、黒々とした直毛の髪、アーチ型の眉毛に丸くつぶらな瞳、右目尻のホクロ。確かにその面影があった。
「なになに、伊東あき、名前はなんて呼ぶの、これ」
「あき、秋良、伊東秋良です」
「へっ!やっぱり名前も男みたいじゃん」
「おっ、女です!」
(ーーーー伊藤翔吾だ!)
秋良は怒りを顕にし頬を赤らめたがその面立ちの下には戸惑いと喜びが隠されていた。ただ目の前の翔吾さまとやらは秋良の事をすっかり忘れている様だった。
最初のコメントを投稿しよう!