第六章 龍神の試練

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第六章 龍神の試練

 水芭蕉が咲く聖地を目指し、険しい山道を歩きながら、私たちは遥か下に広がる向日葵畑を眺めた。そこでは向日葵たちが、太陽の方向に顔を向け、光をいっぱいに浴びながら風に揺れている。一台の車が道を静かに横切り、のどかな風景に溶け込んでいった。  時おり、靄が晴れて日輪が顔を覗かせ、その陽射しは眩しいほどに輝いていた。私の頬を伝う汗が、地面にこぼれ落ちていく。そんな私をよそに、由香はスキップしながら、心を込めて歌を口ずさんでいた。  喜び 広げよう  前に進もう  小さな 私だけど  雨上がりの空のように  澄み切った心になるように  寂しさ忘れずに  喜び 広げよう  前に進もう  前に進もう  私たちの前には、天を突くような険しい崖が立ちはだかっていた。冷たい鎖を手に、空へと続く鉄梯子を一歩ずつ慎重に登らなければならない。もし足を滑らせたら、谷底へと落ちてしまう。それは、先ほど山伏の頭領が警告してくれた通りの危険な状況だ。ここからが、私たちの真の試練の始まりなのかもしれない。  そして、この時のために用意していた、母娘の命綱となる5メートルのおんぶ紐をリュックから取り出した。娘と私の身体を紐でしっかり結び付けた後、鎖につかまりながら崖の頂を目指した。  一方で、由香は恐れを知らないように、足元が透けて見える鉄梯子をわき目もふらず登り続けた。限りなく愛らしい娘だが、彼女の怖いもの知らずの勇敢さには、いつも驚かされる。  頂上に辿り着いた安堵感は束の間、リュックをどこかにぶつけた衝撃で大切なかわらけが欠けてしまったことに気づいた。残されたのは一枚だけ。このままでは、次の関所を通過する際に大きな障害に直面し、旅路が途絶えてしまう恐れがある。  涙に暮れる心境の中、道すがら岩肌の竹筒から滴る湧き水に出会った。突然、喉の渇きを感じ、空のペットボトルに水を注ぎ、ひと口だけ飲んだ。  しかし、その水が龍泉洞の「神水」であることに気づかず、頭領の警告を思い出した時には既に遅かった。 「由香、ごめんね。ママがいけないの。とんでもないことをしてしまって……」  自分の身勝手さにつくづく呆れながら、どうすればいいのかと苦悩していると、由香が声をかけてきた。 「ママ、大丈夫だよ。私に任せて」  娘に優しく励まされた。由香の慰めの言葉が心に響いた途端、「きるるる……」という神秘的な声が空間に響き渡った。 その声は、怒り狂った龍の叫びのようなもので、私たちの運命がこれからどう変わるのかを予感させるものだった。 「許さぬぞ。神聖な水に手を付けるとは言語道断。鉄槌をくらわしてやる」  洞窟の穴から青白い目で睨む龍が現れ、神と成り代わり、人間の言葉で心の怒りを伝えてきた。龍神は私たちに向かい、口から真っ赤な火を吹き出した。  その恐ろしさに震え上がり、私の身体で由香を覆い隠すように守るのが精いっぱいだった。もうダメだ。このまま祐介にも会えず死ぬしかないと諦めかけた。  しかし、私たちに救いの手が向けられた。私の耳元を「ヒューヒュー」という音色がかすめた。 おっかなびっくり目を開けて見ると、それはいつ現れたのか大勢の山伏たちが龍神に放った火矢の音だった。彼らは私たちを助けに来てくれたのだ。 龍神の片目に矢が命中したが、彼はひるむことなく威嚇の叫び声を上げ、鋭い爪を私たちに向けた。 「あの女と子どもを助けるんだ。皆で俺を援護しろ!」  その頭領の叫びに他の山伏たちは、自分たちの命を顧みず頭にかぶる魔除けの帽子を天に放り投げた。龍神は空をカラスのように飛び交う頭巾に視界が塞がれ、一瞬の間、手も足も出なくなった。  頭領はその絶好の機会を逃さず、決着をつけるように陰陽師から伝わる人型の式神の秘術を使った。龍神の口から放たれる火は肩透かしを食らったように遠ざかり、ことごとく打ち落とされた。  龍神は万策尽きたのか、その状況をなす術もなく静かに見届けた。そして、苦渋の涙を浮かべるように洞穴の中へと姿を隠してしまった。 由香はその姿を見つめながら心配げな眼差しで、「ねえママ、あの龍の神さま、死んじゃうの……」と切なそうに呟いた。  頭領は由香の言葉に首を横に振り、「もう少し歩けば、目的地の『黄泉ヶ淵』にたどり着けるから諦めるな。途中でまた危険な目に遭うといけないから、篝火を焚いて見守ってやろう」と私たちに告げて姿を消していった。
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