0人が本棚に入れています
本棚に追加
番外編 6月の雨の子たち
校庭の隅に、一年のうちほんの短い期間だけ注目される果樹がある。
「よし、小雨、ちゃんと見張っていろよ」
トタン屋根の体育倉庫の壁面コンクリートと校庭を囲う緑のフェンスに運動靴を引っかけて、時雨が僕に命令した。危ないからやめなよって僕は言いたかったのに、時雨は僕の返事なんて待たずにさっさと木登りを始めてしまった。
時雨がわき目も振らずに狙っているのは、きれいな橙色した枇杷の実だ。
(枇杷、とってもおいしい。僕も好きだし食べたいけれど……)
想像しただけで口の中に唾液が溜まる。
「あれ、食いごろじゃね?」
なんてランドセルを放り出して、一目散に採取に向かった時雨は、僕を地上に置き去りにしたまま、猿みたいにとは言えない危なげな木登りをしている。普段使われていない体育倉庫は、僕と時雨の身長を足したよりも高いし、枇杷の房もそれくらいの高さに実っている。下を振り返ることなくどんどん登っていく時雨のお尻を、僕はヒヤヒヤしながら見守っていた。
「こらっ!」
「ひゃっ!」
――ザー!
「うわっ!」
そんなときに、突然背後から低くてしゃがれた声で怒鳴られた。あんまりびっくりして、心臓が止まるかと思った。僕はとっさに両手で心臓を押さえてその場で飛び上がった。僕の動揺に同調して、小さな雲一つ分の雨が僕のすぐそばに降る。ちょうど枇杷の木に降りかかったみたいで、頭の上から時雨の声も降ってくる。
「!」
木登りしている最中に雨なんて、時雨が滑って落ちたらどうしよう!
僕は慌てて木に駆け寄った。時雨はちょうどトタン屋根に到達するところだったみたいで、屋根と木の枝の間でしっかりバランスをとっていた。ホッとして握りしめていた拳を解く。
「いたずら坊主は雨雨コンビか」
すっかり存在を忘れていた怒鳴り声の主が僕の横に並んだ。
「用務員のおじちゃん」
ちょっと汚れた白い野球帽と作業着のおじさんは、先生じゃなくて用務員さんだ。授業を教えるんじゃなくて、破れたフェンスを直したり花壇をきれいにしたり、見かけるたびに違うことをしている不思議な人だ。僕はこのおじちゃんと話したことないのだけれど、おじちゃんは僕たちを知っているみたいだった。
不思議に思っておじちゃんを見上げる。おじちゃんは木の上を仰ぎ見ていた。
「こら、下りてこい! 危ないだろうが!」
「でもあとちょっと……」
「いいから下りてこい。屋根は触るなよ。釘が出てるし、手を切るかもしれねえ。錆びた釘は危ねんだ」
おじちゃんの怒った声のあと、しばらく周囲は無音になった。時雨が返事をしないからだ。
それでも、ガサガサ葉っぱが擦れる音のあと、不貞腐れた顔をした時雨が僕たちの前に下りてきた。手ぶらだ。
「危ねえことすんなっていわれてるだろ? こんな人の目につかないところでなにかあったらどうするつもりだ」
時雨を怒っているのはおじちゃんなのに、なぜか時雨は僕を睨みつけてきた。
「見張ってろっていっただろ」
「え……」
恨み節でジト目を向けられる。
「僕、見張ってたよ」
ちゃんと時雨がケガしないように、一時も目を離さずにちゃんと見てた。なのに、時雨は嘘つけって顔して、まだ僕を睨む。
「こら、反省しろ」
「すいません」
怒っているのに無視されるかっこうのおじちゃんが、腰を曲げて無理矢理時雨と視線を合わせた。全然すいませんなんて思ってないのが丸わかりのぶーたれた声を聞いて、おじちゃんは笑った。
「まあお前たちくらいの歳は、やんちゃくらいでちょうどいいんだけどな。今はいろいろうるさいからなあ。で、枇杷食いてえのか」
僕はもちろん食べたい。すぐに頷いて、おじちゃんに「食べたい」と伝える。怒られていたときにはおじちゃんを無視したくせに、時雨もしっかり頷いている。
「ははっ。ちょっと待ってろ」
もしかして……。僕たちのそんな期待に応えるように、おじちゃんは慣れたように木に登って、あっという間に枇杷をひと房とってきてくれた。
「ほら、これ食ったら帰れよ」
「ありがとう」
「――ありがとう」
おじちゃんは掃除の途中だったみたいで、グランドに置いたごみ袋を抱えて校舎の方に向かっていった。
「おいしいね」
時雨から返事はない。好きなものを食べているときの時雨はなんにもしゃべらなくなるから、無言が答えだったりするのだけれど。
種どうしようかな、と考えながら口を動かしていると、先に食べ終えた時雨が運動靴のつま先で地面を掘り返していた。力いっぱい蹴っているけど、土が固くて、浅い。そこに枇杷の種と皮をパラパラ捨てる。僕もしゃがんで時雨が掘った穴に種と皮を捨てた。
「もっと離して埋めなきゃ、でっかくならないだろ」
不思議なことを言う時雨の視線を追って、僕は時雨の種のそばに置いた種をつま先で軽く移動させた。
「まったく、穴くらい自分で掘れよな」
どうやら同じ穴に入れたのがダメだったらしい。時雨がブツブツ言いながら、種に土をかけていく。僕も手伝う。砂交じりの土はやっぱり固くて、周りの土も穴の上に寄せた。ちょっとこんもりした塚みたいになった。
「よし。これで、枇杷の木が一気に増えるな」
果汁で汚れた手もグランドの砂を擦りつけて落として、ランドセルを拾った時雨が満足な顔をした。
「え?」
「小雨、ここに雨降らせてよ。水やり」
「うん」
(木ってそんな簡単に育つものなのかな?)
「よし。いいか、小雨。明日から毎日水やりするぞ」
「うん」
僕は育たないだろうって思うのだけれど、時雨が育つって思っているのなら別に水やりくらいかまわない。
そう思っていたのだけれど、時雨は枇杷の種の存在をなんと数日で忘れた。梅雨入りして水やりの必要がなくなって、土曜日日曜日学校が休みの間に時雨はすっかりその存在を忘れてしまったのだ。いくらなかなか芽が出なかったからといって、ちょっとひどいと思う。
それでいて、一年後、たわわに実った橙色の枇杷の実を見て、
「そういえば小雨、ここに枇杷の種植えなかったっけ? 芽、出てないな」
なんて僕に聞くのだから、時雨にはびっくりしてしまう。
最初のコメントを投稿しよう!