本編 雨の子

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本編 雨の子

 不思議なことってのはいくらでもあって、あんたが信じようが信じまいが、世の中にはそんなもの五万と溢れている。  ――ザー  窓の外は雨。算数の式を黒板に書きつける先生が、上半身を捻りながら大きな声で説明をしている。六分の三と二分の一はおんなじなんだぞって、普段の先生は声がちっちゃい。 (いつもこれくらいの声を張ってくれたらいいのに)  そう思って頬杖をついていたら先生と目が合って、「行儀が悪い」と叱られた。 「ごめんなさい」  おとなしく手を下ろしてノートの上に添える。梅雨の時期のノートはなんとなく湿気っていて嫌だ。 「冷たっ!」 「どうした?」 「……」  下ろしたばかりの手で、鳥肌の立った腕をさする。いうほど冷たくなかったけれど、いきなり頭のてっぺんに水が垂れてきたら誰だってびっくりして声が出る。水――一滴(ひとしずく)の雨。  おれは先生には返事をせず、後ろの席を振り返った。なんにもいわずに後ろの席のやつを睨みつける。先生からはおれの顔は見えないけれど、いつものことだからすぐに察した。 「小雨(こさめ)、教室の中で雨を降らせるな」  おれから目をそらそうと不自然なくらいに顔を伏せている小雨に注意をした。 「先生、教室の中だけじゃないよ! 外でもいつでもだよ!」  それにカチンときて、今度は先生を睨みつける。 「そうだな。でもいきなり全部はむつかしいだろう。だんだん練習したらいいさ。小雨、まずは室内で雨を降らさない。これを小学生のうちにちゃんとできるようになろうな」  先生に負けないくらいちっちゃな声で、小雨は「うん」と頷いた。 「うんじゃないよ、はいだろ」 「はい」 「はい、じゃあ授業に戻るぞ。時雨(しぐれ)もちゃんと前を向いて座って」  先生はわかってない。 (自分に直接関係ないからって、簡単に考えているんだ) 「時雨」 「はい」  最後に一度だけ小雨の旋毛を睨みつけて、おれは椅子に座りなおした。  おれが小雨に出会ったのは、今年の春。クラス替えのときだ。それまでは別のクラスで、存在も知らなかった。小雨はすごくおとなしくて、いっつも下を向いている。あんまりしゃべらないし、存在感が薄い。自己紹介のときも声が小さすぎて、一人だけやり直しをさせられたくらいだった。 「小雨っていうの? おれ、時雨っていうんだよ」  話しかけたのはおれからだった。時雨って名前は、いつもなんて読むの? って聞かれるし、なんか爺さんの名前みたいで古臭いし、おれはあんまり好きじゃなかった。だから、小雨の名前を見て、変な名前同盟が組めるなって、そう思って声をかけたんだけど、小雨がおとなしすぎて、同盟は言い出す前になくなった。だって小雨、見るからにノリ悪そうなんだもん。  あんま仲良くなれなかったなーって感じたのはおれだけだったみたいで、それ以来小雨は気がついたらおれのそばにいる。んで、おれの頭の上に雨を降らせる。 「いきなり雨を落とすなっていってるだろ!」  授業が終わってすぐに、おれは勢いをつけて後ろの席に体を向けた。筆箱を片づけていた小雨はびっくりした顔をして、たくさん瞬きをしている。 「なんで授業中に雨降らすんだよ!」 「――ったから」 「なんて! 聞こえない!」 「か……。時雨が、かわいかったから」  ――ぴちょん 「――」  今度はおでこのそばに一滴。鼻の線に沿って垂れてきた。 「またっ! なんで降らすんだよ! かわいいってなんだよ!?」  いったそばから雨を降らされて、おれは思わず立ち上がって地団太を踏んだ。小雨はまた俯いてもじもじしている。あーもう! 腹が立つ!  おれは苛立ちで顔を真っ赤にして、小雨は意味わからないけれど耳を真っ赤にしている。 「ほっぺたに真っ赤な痕がついてて……かわいかったの。時雨……」  ――ぴちょん、ぴちょん…… 「く~……!」  きりがないから顔にかかる雫は拭わない。食いしばった歯の隙間から変な声が漏れる。こないだ抜けたばかりの歯があるから、きっとそこからだ。  雨が降っている外で濡れるならともかく、屋根があって、窓も締めきった教室で濡れる意味がわからない。しかもおれだけ。犯人は小雨。 「かわいくねえ! 雨降らすな! 分かったな!?」  大きな声で命令して、席から離れる。そうすると、小雨がすかさず立ち上がってついてくる。 (下を向いていたくせに、なんなの!) 「どこいくの、時雨」 「便所!」 「ぼくも行く」 「小雨、おれ怒ってるんだけど、わかってんの!?」 「うん、わかってるよ」  小雨は、ぜーーーーーったいにわかってない。先生も、「いじめたらかわいそうだよ」なんていってるクラスメイトも、みんなわかってない。だって小雨、懲りてないもん。悪いって思ってないもん。わかっていたら、こんなに腹を立てている人のそばにぴったり寄り添って歩いたりしない。 (小雨はバカだ)  だけどいつも一緒にいる。 「ねえ時雨。あれ、神様になりかけてる」  世の中には不思議がたくさんある。体育館への移動中、校長室前に飾られた花瓶だかなんだかわからない陶器の壺を指さして、小雨が立ち止まった。中学校の体操服に着られた小雨は昔よりかはそりゃ大きくなったけれど、クラスの中でも体が小さくひょろっとしていた。袖口から出た二の腕が細っこい。 「足でも生えるの?」 「――なんで壺に足が生えるのさ?」  心底不可解だと小雨が顔を顰める。冗談が通じなかったおれは肩を竦めてみせた。  廊下の外は今日も雨。小雨といると雨の日が多い。つまりほぼ毎日雨だ。気が滅入らないのが不思議なくらい。  外から視線を戻すと、小雨はほっそりした腕を伸ばして、壺を確かめるようにそっと撫でていた。触れるか触れないか、そんな距離で壺の輪郭をなぞっている。その目はどこまでも静かで穏やかだ。  小雨の目は、ちゃんと見えてるのかなと心配になるくらい黒目が薄い。小学生のころ理科の教科書で見た宝石の石みたいな小雨の瞳は、ずっと見ていられる。 「無事に神様になれるといいな」  ――ぴちょん…… 「……」 「――」 「――こーさーめー……」 「だ、だって、時雨が優しいからっ!」  ぴやっと跳ねるようにおれから一歩逃げた小雨は、両手で顔を覆っている。その耳は真っ赤だ。 「あーもう……」  小学生のうちに……なんて先生はいっていたけれど、あれから四、五年経った今も、小雨は雨をコントロールできていない。屋内でこうなんだから、屋外だとそりゃもう遠慮なくずぶ濡れにされることも多い。それもおればっかり。ほかのやつらはともかく、雨を降らせる小雨も濡れない。俺の頭上だけの局地的降雨。  おれの一番身近にある不思議が、小雨だった。 「時雨怒った?」 「怒ってねーよ」 「――」 「いまさら怒ったってしかたねーじゃん」  ――ぴちょん…… 「おい……」 「時雨……好き……」  真っ赤な小雨と頭のてっぺんに落ちてくる一滴の雨。  あれから何年も経って、おれたちは大人になったけれど、おれのとなりには今も小雨がいる。力のコントロール? そんなのできちゃいない。日々、おれのことを好きだといってはおれの頭に雨を降らせている。真っ赤な顔を細っこい両手で覆って。 「小雨、帰るぞ」 「うん」  ――ザー…… 「――小雨……」 「ううっ……好きが溢れるっ……」  たまにわけわからないことをいって、呻きながら土砂降りの雨を降らす。知らない人が見たらびっくりするから、ちょっとやめてほしい。
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