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知らないことの幸せ
思わず外に走り出しそうな気分になった。彼女のことを思い出していたら彼女が目の前に現れたのだ。
「運命かも……」
思わず口走った。しかし……。
彼女の傍らには小さい傘がはしゃいでいた。彼女は優しく小さい傘の持ち主の頬を撫でていた。思わず走り出しそうな自分が馬鹿らしく思えた。
「もう、何年経っているんだよ」
ふっと笑みがこぼれた。
──これはなんだろう?──
悲しみや淋しさは確かにここにある。しかし、それだけじゃない。微かに温かいものがここに流れて来るものを感じる。俺は胸に掌をあて確かめた。
俺はこの十数年の間、彼女のことは何も知らない。同じ時間の流れの中で彼女がどんな道を歩んで来たか知ることも出来ない。どんな時に笑い、どんな時に悲しんだのか、それさえも淋しいけれど分からない。そして彼女も俺がどんな生き方をして来たか知ることもない。少しは思い出してくれたことがあったのだろうか? ましてや彼女の心の中に俺が今でもいるのか? 微かにでもいるのか? それとももういないのか。そう、多分もういないはずだ。
そういえば彼女はあの恋に辿り着けたのか? それとも長い年月の中で昇華され、新たな恋を踏み出せたのか? それは分からない。でも、もう分からなくてもいいのだ。何故ならそこに笑顔の彼女がいる。小さな傘を微笑みながら見つめる彼女を見れば分かる。今、彼女が幸せだということが心に流れて来るのが分かる。
この心に流れて来る微かな温かさ、この俺を包んでくれたもの。それは遠くから彼女の幸せを眺め、感じることが出来た俺自身の微笑みだった。
窓ガラスは雫が流れ滲んでいたが、その先にいる彼女は嬉々としてはしゃぐ小さな傘に向け、また優しく微笑みを浮かべていた。小さな傘に向けるすべての仕草が愛に満ちていた。
──あぁ、彼女は幸せなんだな──
再確認し、俺は冷めきった残り少ない苦くなったコーヒーを一気に飲み干した。
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