第一章

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 四つのファイルのうち、一つのファイルを開いた。それはドライブレコーダーの映像だった。表示時刻は約三か月前の二十二時ごろ。音量を上げると、車の走行音とラジオのような音声が聞こえてくる。たまに聞こえてくるせき払いや独り言から察するに、運転しているのはおそらく男だった。  あった。たぶんこれだ。  動画を見ながら達成感にひたっていると、ミミックが興奮した様子で部屋に入ってきた。もしやと思ってカーテンをめくり、駐車場を見下ろすと、ちょうど白色の軽自動車がバックで駐車スペースにすべりこもうとしているところだった。やばい。あいつの母親だ。なんでこんなときに限って。  ぼくは歯ぎしりした。決定的なシーンはまだ確認できていないけれど、そんな余裕はもうないらしい。ぼくはUSBを引っこ抜いてズボンのポケットに入れた。でも、どうしよう。もしかしたらバックアップもとっているかもしれないし。  ぼくは強硬手段に出ることにした。 「ミミック、ハンマーになってくれ」  ぼくの言葉を理解したミミックはぴょんと飛び跳ねて、空中で器用にくるりと一回転した。一回転するうちにネコの形が大きな球になって、それは床に着陸するまでの一瞬の間にハンマーの形になった。大きさはティッシュ箱くらいで、柄は恵方巻みたいに太い。バランスがちょっとブサイクだけど、立派なハンマーだ。ぼくはハンマーを使ってノートパソコンと外付けハードディスクを叩き壊した。DVDディスクも一応まとめて叩き潰す。よし。これでいい。 「ミミック、逃げるぞ」  ぼくの掛け声で、ミミックはハンマーから再びネコの姿になる。  ぼくはミミックを連れて玄関に行き、超特急で靴をはいた。だが扉の取っ手に手をかけたところで、コツコツとこちらに向かってくる足音がかすかに耳に触れた。まずい。ちょっと遅かったみたいだ。いま外に出ると、きっと目撃されてしまうだろう。そうなれば、ぼくはたちまちお縄になってしまうに違いない。  ぼくは内側から鍵をかけてから、土足のまま部屋の中に戻った。 「ミミック、練習していないけど、細い頑丈なロープみたいなものになれないかな?」  首をひねるミミック。ぼくはテレビの裏側にまわってコードを引っこ抜くと、それを彼の目の前までもっていった。 「これだ」  ミミックはうなずくと、くるりと宙返りして、真っ黒のコードに早変わりした。ぼくはそれを持ってベランダに出て、塀の一部にそれをくくりつけた。コードを外に向かって投げてから、しんちょうに塀を超える。ちょっと足がすくむ。  しかしぼくは体育の成績だってそんなに悪くないのだ。棒のぼりだって一番上まですぐに登れる。こんなのアクシデントのうちに入らない。ぼくは勇気を出して、コードを伝ってするすると下までおりた。地面に足をつけて一呼吸置いて、合図をするようにコードの端をくいっと引っ張った。 「よし、ミミック、いいぞ」  ぼくがそう言うと、上からぼとっとコードの形状のままミミックが落ちてきて、ぼくの手の上で真っ黒の一塊になった。そしてアメ細工のようにうねうねとすると、再びネコの形になる。  ぼくはすぐにでも逃げようと思ったが、そこで重大なミスに気が付いた。USBを回収したはいいが、カメラ本体にデータが残っていたらまずい。もしそうならすべてが水のアワだ。やってしまった。  ぼくはすぐにターゲットの車に向かった。  やつはバイクの他にシルバーのコンパクトカーを所持している。とてもぴかぴかで、新しい車だ。おそらく親のお金である。  ぼくはその車に近づいて、フロントガラス越しにドライブレコーダーの位置を確認した。ちょうどそのときに203号室から甲高い女の悲鳴が聞こえてくる。おそらくやつの母親が部屋の中に入り、荒らされた部屋を見て腰を抜かしているに違いなかった。急がないといけないが、車の鍵は盗んできていないのでこのままではドラレコを回収できない。 「ミミック、ここの中だ。今週はあまり実験をしていないから、まだいけるよね? もし疲れてしまってもぼくが抱えて運ぶよ」  ミミックはうなずいた。  そしてミミックはあんぐりと口を開けた。その穴はどんどん拡大して、やがて目や鼻といった顔のパーツを押しのけて顔全体に広がった。その中は深い深い闇だった。次の瞬間、ぼくの身体はその穴に吸い込まれた。視界がぐるぐるまわり、胴体が思いきりぎゅうっと引っ張られるような感覚に陥った。右も左もわからなくなり、どちらが空で地面かわからなくなる。  気づいたら車の中にいた。  ぼくはルームミラーの前に取り付けられていたドライブレコーダーを強引に引っ張った。ばきっと音がして、小ぶりのカメラがぼくの手におさまる。  よし。これでいい。  ぼくは中から車の鍵を開けて外に出た。内側から鍵を開けたことで、車から激しい警告音が鳴り響く。けたたましいそのアラームは、ぼくの中の不安とあせりを見事にあぶりだした。一刻も早くこの場を立ち去らないとまずい。  くたくたに疲れてしまって今にも眠ってしまいそうなミミックを抱きかかえて、その場から逃げ出した。車の警告音がぼくのあせりを増幅させていたのもあって、アパートの敷地を出てすぐのところで一回派手にずっこけてしまった。抱えていたミミックを離さないようにしたせいで上手に手をつくことができず、ひざ小僧と両ひじをアスファルトに打ち付ける。きりっとした痛みが電撃のように走った。  ぼくは痛みをこらえて立ち上がった。  走れ。ここでつかまったらすべてがムダになる。  そう自分に言い聞かせて、今度こそ一目散に逃げだした。
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