以来、足ることなく

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 コーヒーカップをしずかに傾ける彼は金髪だった。  ソファに深く腰を落ち着け、ゆったりとくつろぐときの空気のような、スロウなテンポで流れるジャズ。彼は皿に載っていたケーキを一口大に切り分け、口に運んだ。  しばらく食べ進めたところで、フォークの動きがはたと途絶える。あまい部分を齧(かじ)られ尽くして、芯の部分だけになったリンゴに似た姿に変貌した、やわらかいスポンジ部。――その頂(いただき)でぐらついている真赤なイチゴが、どうやら原因であるようだった。 「あっ」  そろり、と救出に乗り出したフォークの働きもむなしく、スポンジは無様に転倒してしまった。真白い生クリームにまみれたイチゴが、ごろり、と皿の上でころがる。 「……」  イチゴに付いた生クリームを、丁重に除く青年。銀色に光る先をぺろりと舐め、彼はふたたび、スポンジを切って口に運び始めた。  顔の両サイドで好き勝手に遊ばせていた横髪が、不意にぱらり、と解(ほつ)れる。――そこからは、真黒に色の変わった、凡(おおよ)そひとのものとは思えない耳殻(じかく)が覗いていた。 「……っ!」  青年は耳をおおい、周囲をすばやく見渡した。店の内にいる、誰の視線も彼には留められていないことを確認して、ふう、とひとつ、息をつく。  肩にかけた黒いトートは重そうに食い込んでいる。彼はそこから、分厚い文芸雑誌を取り出し読み始めた。  外はだんだん冷えてきたようだった。遙か彼方からまだ温(ぬく)い気配を落としていた斜陽も、己が時代の終焉に気づき去っていく。暗い空を、ゆったりと雲が流れる。  青年はつと顔を上げた。雑誌の中ほどを、両手で持って開いたまま。空になっていた彼の水のグラスが、音もなく持ち上げられたからだろう。  彼が座っていた正面――カウンタの中から老年の男性が、グラスを手に微笑み、言った。 「ここはお気に召しましたか」  そのエプロンの胸には、「純喫茶逸(はぐ)れ羊 マスタ 依(より)」と、洒脱な明朝体でプリントがされた名札。  洗練された所作で、マスタはピッチャーを傾ける。氷がガラゴロとぶつかる音。とても冷たそうな水だった。 「はい。とても良いお店ですね。雰囲気が落ち着いていて、静かに過ごせます」  にこりと笑い、青年は応じる。横髪を、やや安定しない手つきでくしけずる様子が、マスタの目に留まったらしい。彼のグラスの水が、ほんの僅かに揺らめいた。水を置いて、気づかわしげに首を傾ける。 「耳がお悪いので? ヴォリュームを下げましょうか?」  聞く人によっては、正反対の文脈であると解(かい)してしまいそうな会話文だった。青年は目を、何回か瞬(しばたた)く。ネコのように目尻の切れ上がった瞳は、カフェラテの中心に数滴だけ墨を落としたような、特徴的な色合いをしていた。  宙をさまよっていた視線が、マスタに再度向けられる。 「……いえ、大丈夫です。音量はちょうどいいと思います。ありがとうございます」 「左様ですか。安心いたしました」  マスタのちょび髭(ひげ)が折れ曲がった。優雅な礼をする。 「私たまに、要らぬお節介を焼いてしまって――。わるい癖ですね」  青年は慌てたように両手をぶんぶんと振った。 「や、こっちこそすみません。ほんとうに、大丈夫なので。気にしないでください」 「いえいえ」  グレーや白が疎(まば)らに入り乱れた髭を掻き掻き、マスタが店内を見渡す。 「本日最後のお客様ですので。有終の美を今日という日に飾るためにも、気に掛けさせていただければと」  青年は時計を見やった。あと十分で、中央から白い鳩が出てくる。 「もう九時か」ちいさく呟き、雑誌を仕舞う。  席を立つ。出先だからだろう、どこか遠慮がちな様子で身体を伸ばし、老齢の店主と目を合わせた。視線は真直ぐ彼を向いているのに、口元はもにょもにょと不明瞭だった。  意を決したように、すう、と深く息を吸い込んだ。 「あの。えっと。……コーヒー、おいしかったです。おれ、初めてこういう――その。本格的な喫茶店で、コーヒーを飲んだんですけど。思ってたよりずっと、めっちゃくちゃおいしかったので、びっくりしました」  たどたどしく青年が述べた賛辞を、マスタはにこにことして聞いていた。「ありがとうございます」こまったように眉尻を下げ、今度はマスタが礼を返した。 「こうもど直球に言われると、少々面映ゆいものですね」グラスをカウンタに置き、やわらかく尋ねる。 「良い体験に、なれましたでしょうか」 「はい」青年が朗らかに答えたのと同時に、壁掛け時計が鳴り出した。アナログ形式の文字盤の下から、木製の鳩がしずしずと進み出てくる。  戸を開けるとすずやかなベルの音。 「わっ……綺麗」青年はお釣りを握りしめ、無邪気な瞳でそれを見つめていた。 「今度は……ナポリタンを食べにきます。近いうちに」  マスタは微笑んだ。「是非」  きぃ、とかすかに軋みながら、飴色に艶めく戸が閉まる。寂寂(じゃくじゃく)とした裏道でまばゆく灯っていた室内灯は、やがて静かに消えた。        ◇  雲が晴れる。蒼白な月。  表の道に出ると、しろがねの刃(は)のような冷たい風。春が来るのはまだ先のようだった。青年は歩みを緩め、のろりのろりと前進しつつ、トートバッグを音を立ててあさった。  ポリエチレン地のその袋は、外力が加わるたびに声高く騒ぐ。青年は多少焦っているのか、やや曇った表情だった。やがて目的のものを探し当て、ネズミの住むケージを想起させる音が、止まる。  出てきたのは、目にもあざやかな朱色のマフラーだった。手の中から今にも、零れ落ちそうにしてうずくまっている。青年はそれに、じ、と目を落とす。  彼の顔には、どこか安心したような気配があった。  凍てつく寒気に曝されていた口元と、隠していた両耳を守るように、固くきっちりと、何重にも巻き重ねていく。  そのマフラーはとても長かったので、首の辺(へん)が着ぶくれしたようにもこもこになっていてもなお、彼の腹ぐらいにまで両端が垂れ下がっていた。単刀直入に言って、非常にシュールなヴィジュアルではあるのだが、本人に気にする様子はさしてなかった。  青年は巻き終えたマフラーに手を添わせて、愛玩動物にそうするよう、優しく表面を撫でる。店を辞去しここまで歩いてきたときに比べて、明らかにゆるんだ面差しだった。先ほどまで、ぱっちりとひらかれていた吊り気味の両目は、微睡(まどろ)みに身をゆだねる直前もかくやといった感じだ。  ある種、気を張っていたのかもしれなかった。  こくっ、と彼はちいさく頷き、申し訳程度に街灯の立つ道を進んでいった。  ――しばらくして。  単調な街の景色に、こころなしかうら寂しさが混じってき始めた。  青年が歩を進めるにつれ、道の片隅に一定間隔で建っていた街灯の現れる頻度が、だんだん減っていく。眼前には小高い丘。辺りに人家はほぼ見られない。さびれた街外れ――まさに、そんなフレーズを精確に描き起こしたような、情景だった。  濃い蒼色をした星空では顔色の悪い月が、我こそが主役とばかりにアピールを続けている。澄んだ大気のおかげか、地に落ちる影もひときわ、濃い。――丘の麓に続く一本道、その街灯の下に差し掛かろうとした瞬間だった。  足元に落ちた影が、ゆらぁ、とひとりでに動いた。  まるで静止画のような、森閑とした風景のなかで。        ◇  影は暫時もぞもぞとうごめき、やがて、燻(くゆ)る煙よろしく地面から立ち上がった。たったいま気づいたというように、青年が『それ』と視線を合わせ、言った。朱(あか)いマフラーにそっと手を添え、しゅるしゅるとほどく。 「……いつもの棒人間スタイルは、流石にマズいのでは?トトゥア先生」  見た目が怪奇現象に寄り過ぎだと思います。ひとの好い笑みを浮かべ、彼は『それ』に言葉をかける。 「なんと」  影はちいさく驚嘆の声を上げ、再び、もぞもぞと蠢動(しゅんどう)し出す。 「負うた子に教えられるとは、まさにこのことだ」  青年が、数回瞬きをしたころには、そこには恰幅の良い紳士が立っていた。ぴんと背すじの伸びたシルエットから逸脱するように、大きくせり出したおなか。仕立ての良いジャケットのボタンは、今にもどこかに飛んでいきそうだ。  手に携えたアンチークなステッキをくるりと一回転させ、紳士は問うた。 「どうだろう、キサリカ君。良い感じかな?」 「紙幣を燃やしてそうなビジュアルですね」 「ふふふ」くぐもった笑いを洩らし、紳士はカイゼル髭を軽く撫でた。 「彼はシルクハットを被っていないよ」  青年の頬が右側だけ、引きつれたように動く。唇が固く、真一文字に引き結ばれた。  パーティークラッカーをいきなり破裂させて説教されている子供のように、悄然とした声で青年は応じた。 「すみません。あやふやな情報を、むやみに扱うべきではありませんでした」 「キサリカ君は真面目だなあ」  紳士は場をとりなすように笑い、続ける。 「そんなに思いつめなくてもいいんだよ」  あれを見てごらん。  紳士の右手に合わせ、冷たく澄んだ大気が揺らぐ。  白手袋の指が、路傍に捨てられ萎(しお)れたタイヤを指した。 「最初から気張り過ぎてると、すぐにパンクしてしまうよ。もう少し、ゆるく生きてみたらば、きっとこの先楽だろう。せっかく永住権を得たのだから、面白おかしくやると良い――そう、わたしのようにね」  ガニ股で、決めポーズをとる紳士。青年の発した「はい。心に留めておきます」という答えに、コメディアンじみた仕草でずっこけた。 「とはいえ、そこまで純粋なのは正直、もの凄く好ましいことなので、あえてこれ以上、わたしは言及しないことにするよ。……あ、そうそう。この好々爺(こうこうや)はインターネットでも有名なんだよね。大学の授業内では、自分で調達したコンピュータを使うのだろう? ぜひ調べてみると良いよ」  青年――キサリカは数秒沈黙し、にこりと快活に笑んだ。難しい問題に挙手するときのような、挑戦的で楽しそうなものだった。 「はい。パソコンは、明日、買いに行く予定です。電車で。――大きな駅はひとが多そうなので、ちょっと緊張します」 「それはよろしい」  影――トトゥアはステッキをくるりと回し、頭のうえできれいな丸を描いた。「受け答えもばっちりだ。さすがだね、優等生」  ありがとうございます、と恐縮して礼をする。深すぎる前傾姿勢から戻ろうとしていたキサリカの動きが、続いて放たれた一言で、止まった。 「そうそう。……彼は、元気にしているよ」 「! ……」  中途半端に背をかがめた姿勢のまま、上目遣いのようになった彼の視線だけが、ゆっくりと再び、地面に落ちる。 「そっか。元気ですか。あいつ」  間をほとんどおかず、短く区切る話しかた。  キサリカの右手は、変色した耳にあてがわれていた。  どす黒い。  だが今はかすかに、――そこに別の色があらわれていた。元来の黒とは比べるべくもないほど、淡く、もろいうす紅(べに)。 「寂しがっていたよ。よく面倒を見てくれた、キミが――キサリカがいない、と言って」 「……」  ほんの刹那のあいだ、青年の呼吸をする音が無くなった。潜まった息遣いと、彼の平静さは相反しているようだった。  身体からだらりと力を抜き、空中の見えない壁に凭(もた)れるようにして立つ。筋張った日焼けしていない手で、両目を覆った。  静かに、深く呼吸をする音。うすい唇が、寒さのためか震えていた。 「嘘をつかないでください。先生。あいつが、そんなこと、言うわけないじゃないですか」  あいつは――メリルはどうせ、おれのことなんて何とも思っちゃいない。自嘲的に笑い、目を新月のように細める。 「あいつはそういう奴です。おみやげ、くれなかったなぁ、とか。まーいーや、なんかおいしいもの食べたぁい、とか。精々、そんな程度で終わりですよ」  薄情さにあきれ返ったというように空をあおいで、手の覆いを外す。す、と短くブレスを挟み、トトゥアに同意を求めた。「でしょう?」彼の表情は、いつもの好青年のそれだった。  ひゅう、と風が大気を鳴らす。――春など、ほんとうに来るのだろうか。そう思わせるような風だった。  トトゥアが、ジャケットの襟を掻き合わせる。 「いやしかし今日は寒いね」  尻切れ蜻蛉(とんぼ)の愛想笑い。  困ったように厚い唇を尖らせて、ずり下がったハットをかぶり直した。 「……キミには、探偵の素質が備わっているよ。いやはや仕方のない子だねぇ――このいかしたステッキとハットを、はなむけとして授けて進ぜようか」 「ありがとうございます。でも欲を言うなら、鹿撃ち帽のほうがより適当ですね」  さっくりとした口触りのジョークを返礼とし、彼は目を伏せた。 「先生。これは冗談なんですけど、……もし、おれが探偵だったなら、ひとの心が、――いま考えていることだとか、気持ちが、もっと理解できるように、なるんでしょうか?」 「そうとも限らないかもね。彼らの主な仕事はトリックを暴くことだ」シルクハットを伸ばした指で突ついて見せる。 「ただ――キミはある意味、すでにそれを理解しているんだよ。キサリカ君」  先ほどよりも強い風が、二人を吹き飛ばさんとばかりに襲い掛かる。おっとと、と間の抜けた悲鳴をあげて、影は左右に揺らいだ。 「まいったな。さむいのは苦手だ」  両腕をがばりと平行に広げ、やじろべえよろしく揺れてみせる。それとほぼ同じタイミングで、のうのうと流れていた雲が端に捌(は)けて行った。  背後からの月明りはさえざえと。  続く言葉を待つキサリカの目は、逆光になった暗がりの中でなお、鈍色(にびいろ)の光を放っている。 「お茶を濁してしまって、すまなかった。キミにとっては、非常に重要なことだったろうに」トトゥアは口ひげを軽く撫で付け、言った。  キサリカは答えずに、沈黙を守るのみ。  ただ、彼の瞳は、何よりも雄弁だった。  ちいさく息をつき、トトゥアはステッキで身体を支えた。ふくよかな重みを任せられたそれは、酷く危なっかしげな様子でたわむ。 「彼はキミの言う通り、いつも通りだ。ほんとうに。それこそ、可哀想だと思えてくるくらい……」  青年の口元が、かすかにゆがむ。月はまた雲に隠れる。 「つらいだろうがね。……キミのことなど、とっくの昔に忘れてしまったのかもしれないよ。――とても楽しそうに、わだかまりなどなさそうに、来る日も来る日も跳ね回っている」  ぴんっ、と明瞭な音を立て、シルクハットがちょっぴりずり上がる。はじいた指を摩(さす)りさすり、トトゥアは続ける。「キミは――」視線がさまよう。躊躇っているのだろうか。「――さみしくないのかね。あー……彼と離れて」  幅広のハットのつばがずり下がってきたことで、紳士とキサリカの視線は合わなくなってしまった。  だが紳士は、今度はそれを直そうとはしなかった。  あの、やや芝居がかった仕草で。 「……心配はいりませんよ。どうか先生の言いたいことを、そのまま仰(おっしゃ)ってください」  キサリカは頬を持ち上げた。どこか、無機質な顔だった。目元には金色の前髪が、薄くぼんやりとした影を落としている。 「おれはあいつには、あのままでいてほしいんです」  微笑んだまま、青年はそらんじるように言った。 「いつまでもいつまでも、――子供みたいに純粋で、何も知らなくて、手ばかりかかる奴でいてほしい」 「……」  紳士は黙り込んでいる。  たわんでいたステッキがやっと解放され、こつ、と地をひとつ打った。 「相(あい)分かった――それが、キミの答えだね」  空を指で差し、シルクハットを取る。 「キサリカ君。今日は月が綺麗だね」 「……雲に隠れていますけれど」 「おや。これは知らないのかね」  トトゥアは目をしばたたき、言った。 「……はい?」  首を傾(かし)げる青年。  空は今や、分厚い黒雲に覆われていた。雨でも降り出しそうな気配すらしている。 「もう、帰っていいですか。月なんて見えないし――もう、遅いので」  顔には、感情をあやふやに暈(ぼか)す陰影。 「まあ待ちたまえ」  紳士は禿頭(とくとう)をぽんぽんと叩き、言った。 「わたしはこう見えて、月が好きなのだよ。わたしの姿を、そしてこの見事なつるぴか頭を、とっても美しく輝かせてくれるからね」  キミにもそうあってほしいのだ――紳士の発した言葉に、キサリカは手を頭に持って行った。「……おれも禿(は)げろと?」 「ははは、まさか」  紳士は爆ぜるように笑い、涙を拭いた。  青年のその手は耳元へ移動し、まだ伸ばし切れていない横髪をくしけずっている。 「意味が分かりません」不機嫌な声。 「あの世界――暗濘界(あんねいかい)では、月なんて見えやしないのだよ。通常はね」  含みのある言い方をし、紳士はステッキを空へ放る。 「さあさあ、とくと御覧(ごろう)じろ。――わたしがこの黒き雲を、華麗に晴らし散らして進ぜよう」  くるくると落ちてきたステッキをはっしと掴み、紳士は大仰に見得を切った。        ◇ 「ひとの気持ちが知りたいと言っていたね。キサリカ君」  紳士は視線を彼に合わせ、口ひげを撫でた。 「あれはどうして――キミの口から出たものだったのかね」  青年は沈黙したままだ。ぼうっとした表情。  どこか、意識のフォーカスが外れているようにも見えた。いや――もしかしたらわざと、そう振る舞っているのかもしれなかった。  これ以上、半ば茶番じみた雑談に付き合う気はないようだった。 「困ったね……」紳士は頬を掻く。 「まるで、心を閉ざしてしまったようだ」  しゃがみ込み、ぶつぶつと独りごちる。 「身体が重いと、立っているのも一苦労だよ」  ステッキを自然な手さばきで、不自然な握りかたに持ち替えた。持ち手の部分ではなく、地面へと真直ぐに伸びる柄(え)の部分を、人差し指を添え掴んでいる。  キサリカがふとそれに焦点を合わせ、ちいさく瞠目(どうもく)した。 「……!」  紳士がにやりと笑った。 「こういう時にこそ、わたしの能力が活きるな――昨今の風潮的には、じゃっかんマズいのかもしれないが」  ハンドル部を青年のお腹に押し当て、紳士が朗々と詠唱する。 「いざ行かん、真心(しん)の探求の旅へ。――≪美味なる心象(ミスアンドテーク)≫」  青年が言葉を発さぬままで、彼と紳士を繋ぐ杖身(じょうしん)を握りしめた。そのカフェラテ色をした両目には、怯えのような、はたまた敵愾心のような、形容し難い感情が浮かんでいた。  ひょっとしたらそれは、彼にできる限りせいいっぱいの、最後の抵抗なのかもしれなかった。  だがそれは外されなかった。屋根にかけられたはしごを上から蹴倒すことが、実際に出来はしないのと同じように。  紳士の姿が消える。  後にはただ、光を喪(うしな)った目で立ち尽くす青年が残された。        ◇ (結局……トトゥア先生は、どうして現れたのだろう)  おれは暗い六畳間で寝そべったまま、ぼんやりと考えていた。 (心配だったのかな)  故郷――というか、これまで暮らしていた彼(か)の地を後にして、早くもひと月が過ぎている。この世界が扱っている言語にも、常識にも、大分慣れてきた――だろうと、思う。自分では。 (やっぱり、……)  脳裏に、落ち着きなく揺れる後ろ姿が浮かぶ。  放埓に跳ねた真黒な髪。女のひとのような、あざやかな朱い口元。  まん丸い黄金の月を閉じ込めた深淵の瞳が、振り返って微笑みかけてくる。 (…………)  うつ伏せになり、厚い掛け布団を頭からひっかぶった。  くだらないことなど考えず早く寝ないと、明日に障ると思ったからだ。  今夜は寒かった。  あのあと、空は晴れなかった。無責任にのたまった先生だけではなく、おれまで雨に打たれて濡れ鼠になった。  しかし、考えてみれば当たり前のことではある。  彼の≪混沌系技巧(ケイオスムーブ)≫は元々、気象操作関連の能力なんかではないのだし――いち個人の宣誓通りに、天候が変わる、などと。 「馬鹿らしい」  クラスの真面目者が聞いたら目を吊り上げそうなことを呟き、目を閉じる。  銀縁眼鏡をかけたかつての親友の顔が、わずかにぼやけかけていた。  そのことに気づいたのは、寝入り端(ばな)の夢が開演ブザーを鳴らしてからだった。        ◇  どろどろとした、湿度粘度粒度、すべてが高止まりしたままの闇。  ここはどこでもない場所。  どこにも存在しえないものの行きつく場所。  きっと循環しているけれど、依然濁った空気の場所。  厚底のレンズをきらと光らせ――この闇に囲まれた世界では、あまりにも心許ない――、かつての親友はあきれた表情をつくってみせた。 「なーキサリカ。なんでお前ってさ、いつもアイツと……メリルとべったりなワケ?」  見覚えのある景色だったし、いつかした覚えのある会話でもあった。おぼろげな記憶。  ただ当時と違うのは、おれがそれを、少し離れた椅子に座って眺めていることだった。  金髪の後ろ姿が、少し頭を傾ける。親友――彼の名前は、ええと――の様子の変化から、なにか答えたようだったが、不思議なことにその返答が、耳へと届くことはなかった。 「でもアイツさぁ……はっきり言ってさ、ガキじゃん? お前がおもりしてやる必要ねぇって。もっと適任、いくらでもいんじゃん」親友は名前をいくつか並べながら、指を順々に折り始めた。「……あと、■■■とか■■■■とかさ。せんせーとかに任しときゃいいって」  な?  ブルースレートグレーの瞳が弧を描く。野狐(のぎつね)を思わせる細い目の底には、隠し切れない嫌悪がにじんでいた。まあ合わないだろうな、と今、傍(はた)から見ていても思う。口調の割には、存外彼は、真面目――というか、木で鼻を括ったような性格というか、とにかくそんな感じなので。  ただまあそれを踏まえたとしても、魅力的な奴ではあるよな、と思った。  足をぷらんぷらんと、バタ足のように振り動かす。持て余した、プール一杯の暇をかいて泳ぐように。眼鏡の奥の瞳が段々と険しくなっていくのを見るのがいたたまれなく、ずっと下を向いていた。夢のなかでまで何をやってるんだ。 (……)  いま思えばとかくおれの友だちには、ひとを惹きつけるような奴が多かった。  友人たちの顔を、彼のように指までは折らずとも、順を追いつつ脳裏に浮かべていると、何だか宙に浮いたような気持ちがした。 「あ。おい。どこ行くんだよ」  ――我に返る。銀縁眼鏡のフレームをつまみ直しながら、振り返った彼がのけぞった。「ああもう、――言うそばからこれだよう!」頭が痛い、というふうに、左手はボサ髪のおでこに添えられていた。 「はあ。……もう好きにしろよ。オレ別に、ひとの好みに口出したいわけじゃねぇから。どうぞよろしくやってくれ」  おれの後ろ姿に大きなため息を浴びせながら、彼は席を立った。なぜか最後だけ、おれの返した台詞が聞き取れた。向こうで響くあいつのきゃいきゃいした声よりも、それは耳に染(し)んだ。今後暫く取れてはくれない、「彼の地の住人」の――証のように。 「そうだな。ごめん。――おれもやっぱ、好きでやってんだわ」        ◇  黒髪が揺れる。  項(うなじ)を隠すように蓬々(ほうほう)と伸ばされた、クセの強いうねった後ろ髪をかき分ける。絹豆腐のような肌。  どこかはずかしそうににへ、と頬をゆるめ、何かに祈るようにそっと、目を閉じる。  耳元にかかる横髪を、震える手でわきにどける。ほんの一瞬だけ触れた己の耳殻が、いやに熱かった。  寒さはとうに、どこかへ行ってしまっていた。  包(くる)まる毛布の温もり。 (ああ――そうか)  トトゥア先生のあの言動の意味が、ようやく飲み込めた気がした。  とどのつまりは。  祈っているのは――自分だったのだ。        ◇  目が覚めると寝汗をかいていた。  着ていた寝間着を洗濯機にほうり込み、軽くシャワーを浴びる。余分な雑念が、洗い流されていく感じがした。 (おれには生活がある)  回る洗濯機の振動に合わせて、上に乗せた右手が揺れている。 (今日は駅まで行って、切符を買って、電器屋はええっと、どこだったっけ)  ごうんごうんごうん、と反響する音。濡れそぼった髪の先からは、水滴がぽたりぽたりと床に垂れている。 (ドライヤーを同時に使うと、ブレーカーが落ちてしまうかもしれないな)  人間界での新生活は、思ったよりも考えることが多い。  今日買いに行くものと違って、おれのメモリはそんなにスペックは良くないし、計算の性能だってよくないのだ。  きっと。  そう思いたかった。        ◇  街に出る。大勢の人で、目が回るくらいにぎわっていた。  人混みにせっつかれながら切符を買い、人混みに流されながら構内を歩き、人混みにぎゅうぎゅう圧縮されながら電車に揺られる。  格安で契約したスマートフォンの経路案内を凝視しつつうろうろとして、電器店に着く。途中でヘンな服装の若い男のひとにぶつかってしまい、肩を組まれどこかへ連れて行かれそうになったが、死ぬほど謝罪の言葉を叫んで逃げ切ることができたので良しとする。いやごめん、全然良くないわ。何かめっちゃ触ってきたし。何か舌なめずりしてたし。捕まってたら、絶対になんらかのナニカが待ってた。都会怖っ。  話がずれた。――気を取り直して。  事前に、どんなものを見るかは大まかに決めていたので、とてもスムーズにことは運んだ。  店員さんがおすすめしてくれたものがいちばん良さそうだったので、ケースなどを選び、セットアップのやり方を教わって帰った。手ずから操作に慣れておくのも大事だと思ったのと、単純に早く使ってみたかったからだ。  帰り道、なぜか妙に、――嫌な気配がした。  ひとに見つからないよう物陰に隠れ、両耳に手を当ててささやく。 「詩歌管弦の涼やかな音が、我が目前に立ち出でんことを。――≪一介の眩く耳目(ファーラウェイ・ドランクステッパー)≫」  きいぃぃぃん、と甲高い耳鳴りとともに、聴覚が鋭利になっていく。 (ああああああ頭が痛い……! なんて雑踏だ!)  確証もないのに使うんじゃなかった――そう呪詛を吐きながら能力を解除しようとする手が、ぴたと止まる。  不平を垂れていた思考が、ある一点に焦点を合わせた。  数キロ先。聞き覚えのある声。 (さっき絡んできたヤバい奴、と……男の子か? 高い声)  考える間もなく走り出した。  声の発生源に到着する。見つからないように、忍び足でそこを覗き込んだ。  そこは狭い路地裏だった。数歩先――行き止まりの壁に追い詰められた青年が、半べそをかいてぺこぺこしている。 「すみません! すみません! ――ひっ」  さっきのヤバいひとが彼の腕を掴み、顔を近づけてまじまじと眺めまわす。 「いやいや、全然許すからさ。そんかしいっしょに来いよ。そのナリじゃどうせ、オレと一緒で友だちいねえんだろ? ダチなろうぜ、なっ?」  やっぱり、さっきと同じ流れだ。こんな感じで、一人の奴にカラむのを繰り返しているのだろう。 「確かに友だちはいないです」  真面目な顔で青年は応じる。いやそこはいるって言えよ。明らかにいまの状況わかってないだろコイツ。 「あっ、うん……」  訊いた本人も意表を突かれたようで、数秒、空間が妙な空気に支配される。 「じゃっ、……じゃあ決まりだなっ! ほら、行こうぜっ」  不自然に上擦った声で男が言い、青年の手をぐいっ、と引いた。勢い良く彼らが路地裏を出たところで、ばっちり目が合ってしまった。 「ッ⁉ えあっ⁉ ななな何だオマエ‼」  ものすごい大声で男が叫ぶ。ちょうど入口の横あたりを歩いていたハイヒールの女性が、歩調を乱しながら足早に通り去った。確実に関わりたくない人種である。  だが、ここまできてスルーするわけにはいかないだろう。  男が腕を掴んだまま、彼に訊ねる。 「お前ん知り合い?」 「? いや、違いま――」 「知り合いです」  きょとんとしている青年。その様子に気づかれないよう、早口でまくし立てる。 「こんなとこにいたのかよアキラ~~~! 探したんだぜも~う! 全くもう、都会はアブねえんだから、おれから離れんなって言っただろ? ヘンなのに目ぇつけられてるしよ~~~!」  とりあえず強そうなチャラ男を演じてみた。この解釈で合ってるのかは知らないけれど。  青年の手を引く。 「さ、行こうぜ」  何度か腕を軽く引っ張り、さりげなく離れるよう促す。  両側から引っ張られている彼は目を白黒させながら、 「え? え? え?」 などと言ってわたわたあわてていた。いや流石に気づけよ。ニブちんが。 (馬鹿なのかコイツ……)  心のなかで呟く。  何気に、移住してきて初めて他人を罵倒する体験をしているのだが、まさか初対面のひとを相手にやることになるとは思っていなかった。  我ながら、先行きが不安になってくる。 (……)  なぜ、こんなにモヤモヤするのだろう。  まさか新生活の出だしから、こんないざこざに巻き込まれるなんて思っていなかった。  予定がくるうと、ひとの心は波立つものである。  つまり、おれは「にんげん」として、好調な滑り出しで適応しつつあるということでもある。  そう。きっとそうだ。  やっていける。  あたらしい地平でも。  この身、ひとつでも。 (…………)  青年はいまだ状況の読めない様子で、おたおたと交互に両側に立つおれと男の顔を振り仰いでいる。  どことなくあどけなさの残る黒い瞳が、おれを捉えてはまた向こうに移る。 「…………いい加減にしろよお前」  だんだん苛立ちが募ってきて、吐き捨てた。  青年が身を竦ませ、こちらに視線を固定する。その目は事故でも目撃したように大きく見開かれていた。しまった、とは思った。ここで印象を悪化させたら、状況を打開することが出来なくなる。結果として向こうについて行かれたら、そのあとに何をされるか分からない。  青年の手を一旦放す。男に詰寄ると相手は一歩下がった。 「手を放せ。おれの連れだ」  端的に述べる。男は上目で半ば睨むようにし、言う通り体側(たいそく)に腕を垂らした。面(おもて)を伏せ、足早に去っていく。その背中は見て分かるほどに丸まっていた。もう少し友好的な言い方もあったのかもしれなかった。 「……」  振り返る。青年がきょどきょどとし、こちらにぺこりと礼をした。 「あ、えっと、……ありがとうございます?」  語尾にはクエスチョンマークがもれなくくっついている。まあ、それはそうだろう。ナンパ男は去ったとはいえども、気分のいい光景ではなかっただろうと思う。 「いや、こちらこそ、知り合いでもないのにでしゃばってしまって。すみません」  自分もさっき、ぶつかったのをきっかけに絡まれた旨を伝える。青年は納得したようにひとつ頷き、経緯の説明をし出した。 「あのひと、――そう。おいしいチョコレートショップを知らないか、と訊いてきて」  ほら、今日、ホワイトデーでしょ。青年は後ろを指差す。今気づいたが、周囲には紙袋を持った男性がうろうろしていた。風に躍る、赤やピンクの華やかなリボン。 「ああ」 「どこかおいしいところで、チョコを買って行って、その……。誰かにあげたい、と」 「誰かに?」 「はい」  青年は首を傾げかしげ、頷いた。 「なんでも、あげるひとがほしかったらしいんです。案内して、じゃあこれで、って帰ろうとしたら、キミでいいや、って、呼び止められて」 「ええ……」  なかなかに節操のない奴だった。 「しかも微妙に失礼だしな。『で』って」 「妙なひともいたもんですよね」  でもここ、本当においしいんですよ。店の看板を見上げ、青年がうっとりとする。「フルーツ系が特にいいんですよね」 「へえ……」  店の前に立ち止まっていたので、出てきた店員から声をかけられた。良かったらご覧になってください。お言葉に甘え、店内に入る。そろそろ雑踏が耳に痛かった。能力を使うと、しばらくはこの余韻に苦しまされる。  ぴかぴかに磨き上げられたガラスのショーケースの中に、落ち着いた色合いの箱がいくつか並べられている。どうも、箱によって内容が違うらしい。 「僕は、このライムとホワイトチョコの奴がイチオシです」  青年がそっと指した先を見る。流麗な筆記体で、何やら、おしゃれそうな商品名が書いてある。 「へええ……」  確かにおいしそうだ。並んでいる箱を順番に眺めてみる。  青年のおすすめのチョコは、ほとんどの箱に含まれていた。  内容量が多く、値段も高い箱にしか入っていないものもみられたので、そこは少し安心した。 (ん。……)  見渡す中で、ふと、ひとつのチョコレートに目が留まる。  艶(あで)やかな色味のダークレッド。まさしく職人芸といった手腕で造形された、ひらきかけのバラを模したものだった。 「そのバラの奴、可愛いでしょ」 「え。あ、はい」  店員がにこやかに話しかけてくる。さらりとした黒髪を、後ろでひとつに結っていた。男性では珍しい髪型ではある。でも、とてもおしゃれな店員さんだな、と思った。都会はみなこうなのだろうか。  かるく首をかしげ、彼は微笑んだ。横に垂らした毛束がさらりと流れる。 「それ、一番人気なんだよ。見た目も華やかで、あとはね、カクテルが入ってる。ここは、シャイなお客様が多いから、いつもそれをお勧めするんだ」 「……はあ」  我ながら胡乱な返しだ、と思いつつ、まぬけな声で頷く。意味ありげにふふふ、と笑い、店員さんは続けた。 「まあカクテル言葉なんてのは、イマドキ流行らないかもだけれどね――とにかく、告白にはもってこいだよお」 「……」  数秒、考え込むふりをする。  紙袋に付けるリボンの色は、すでに決まっていた。        ◇ 「もし。そこの貴方」  ショップを出る間際。聞き覚えのある声に呼び止められ、おれは足を止めた。  こちらへ来て、まだ一週間ほどしか経っていない。その短い期間内にできた知り合いで、かつこんなきちんとした言葉遣いと言えば、おおよそ一人しか思い当たらなかった。 「あ――『逸れ羊』の、マスタ」  簡単な挨拶とともに、後ろに視線を向ける。きっちりと白髪を撫で付けた紳士が、にこにことして立っていた。  会釈をするときの身のこなしが、心なしか軽やかだった。どうやら機嫌がいいようである。 「こんにちは。私今日はオフですので、『マスタ』呼びではなくても、『依おんじ』と呼んでいただいても良いんですよ」  微笑みを引っこめて、真顔でそんなことを口にしてきた。これは……どう反応するのが、正解なんだろうか?  助けを求めるつもりとかではなかったのだが、ちらりと隣の青年のほうを見ると、困ったような引き笑いが返ってきた。「いつも思うんですけど、依さん、時々ヘンですよね」「ふふふ」和やかな雰囲気。二人は、どうやら知り合いであったらしかった。正直に言おう。そうならそうと、先に言っておいてほしい。 「タカ君も、ここのチョコレートが好きなのでしたね」  マスタが微笑み、話しかけた。「ここは私のイチオシでもありますので、是非とも布教なさってください」青年――タカがあわてたように、顔の前で両手を左右に振った。 「いや、本当にたまたまで。え、っと。あの……道案内を頼まれて、でもそのひとが多分、ヤバいひとで、……んん」  どうも、説明下手でもあるらしい。まごついているのを見るのが忍びなく、「や、絡まれてたんす。この子」横から口を挟んだ。成り行きで巻き込まれただけでも、状況説明くらいなら流石にできる。  子供じゃないんだから。  若干のモヤつきを振り払うように、軽く髪をかき上げる。数瞬遅れて、またそれを元の位置に戻した。  忘れていた。まだ耳鳴りは残っていたのに。 「…………」  ふたりの様子に変化はない。  気づかれてはいない――と思う。  マスタが数秒遅れ、びっくりしたような目をして青年に、「え、大丈夫だったの?」と訊いた。驚いたためだろうか、敬語が抜けてふつうのおじさんのような感じになっていた。これはこれで好々爺というか、親しみやすくて良いと思う。 「連れて行かれそうになってたんですけど、寸前でおれが割り込んだんで。まあ、ハイ。見ての通りです」  ここで頼もしい好青年の仕草でもできたら、なんて思うことは思うのだが、生憎そこまでおれは器用な奴ではない。チャラ男の仮面は、既に外れてどこかに落っことしてきてしまった。 (……仮面、か)  その言葉に、ふと、思い出した光景があった。  パソコンを買いに電器店へ行く最中。  駅を歩いている途中で、ふと気になったことだった。  それまで無表情のままで携帯へと目を落としていたのに、着信音に気づき画面を一回タップした途端、まるで別人のような笑顔で会話をし出すひとを、何人か見かけたのだ。  彼らは決まって、一人で隅っこに佇んでいたように思う。 (あれもある種、仮面をかぶっているみたいだよな)  思えば、最近になりこの人間界に移住するまで、周囲に誰もいなかったことなんて、そうそうなかったように思う。  名前を思い出せないあの友人はもちろんだが、まあ特に、――アイツが、四六時中おれのそばから離れなかったから。 「――で、どうしてチョコレートショップに来たの?」  近ごろの怪しげなひとの多さについて意見をつらつら語っていたマスタが(中年くらいの年代になると、自分のお気持ちを語りたくなるものさ――とは、トトゥア先生の言(げん)である)、そう言って首をかしげた。 「そのヘンなひとが、ここに来たいって?」 「はい。今日バレンタインだから、誰かにあげたかったんですって」青年が困ったように笑う。 「ここの前に着いたら、もうキミでいい、って、向かいの、そこの路地裏で話すことになって」 「いやおかしいだろ。なんで話すのに、わざわざ路地裏に入る必要があんだよ」  おれのツッコミをよそに、マスタがそこをすっ、と覗き込んで、「ほう」と声を上げた。 「こんなところに路地裏があったんですか。私このお店に通い始めて長いんだけれど、全然意識していませんでした」そして青年のほうを向き、「タカ君」と呼んだ。微笑む眼がやや、厳しい光を帯びている。 「怪しいとは、思わなかったのですか? 君は」 「え。あ、はい」  マスタが僅かに乱れた髪を、気にするように手で梳いて、短く息を吐いた。 「もう少し、警戒心を持った方が良いと思います。私は」  なんとなくおれは、自宅のリビングで子供を諭している父親を連想した。だとしたら、こんなに手のかかりそうな奴もいるまいと思ってしまう。出会ったばっかりのひとに対し、失礼ではないかと指摘されればぐうの音も出ないけれど。  青年は「はいっ!」と、きまじめな顔をして頷いている。……正直、おれに言われる道理は向こうにもないだろうが、多分コイツまたやるな。  マスタも同じことを感じたらしく、「いやほんとに、気をつけてくださいね。ここ最近物騒ですから……」と眉根を寄せている。  コイツとこれがきっかけで今後交流が……とかなるほどおれは社交的ではないし、運命主義者でもない。のだけど、ここまでくると心配になってくる。  なんとか、頼りになる奴を隣においておけるといいよな、おれは嫌だけど、と要らぬお節介(ほんとうに余計だ)を脳内で焼いていると、「ところで」と、マスタがおれに水を向けた。 「その持ってらっしゃる紙袋、リボンがかかっていますね。ひょっとして、誰かにあげるのですか?」 「え。あ、……」  しばらく、何も言葉が出てこなかった。  図星ですか、と訊ねてくるマスタの両目が、楽しそうに細められている。  青年が遠慮がちにマスタを見遣(みや)った。「依さん。そういうことを言うのは、あまり良くないんじゃ……?」ちょっと恥ずかしそうな顔で、続ける。 「その。恋愛の話題は、デリケートだし、難しいから……」  マスタはちらりとそちらを見、「これは失礼」と真顔になった。 「もうこの歳になりますと、あまり浮いた話も聴けませんから」 「嘘ばっかり。『逸れ羊』でたまに、若いひと達の恋愛相談受けてるくせに」 「他人の恋愛事情は健康に良いですよ」 「意味分かんないです……」  呆れたように、青年が天を仰ぐ。「オレには到底、縁とかないんですもん」 「ははは」  気の合うひとが、君にもいつか現れますよ――。  マスタが陽気な口調で言った。  おれは手に持った紙袋の、長いリボンが揺れているのに目を落とす。 「……つまらないことを聞いてしまいましたかね」  マスタの声が、微かに沈んだ。  おれは上を向き、取り繕うように笑う。 「あ、いえ。気にしないでください、ホントに」少し迷い、付け加えた。「これ、自分用だし」  青年がやや遅れて、「……あ。あー、なるほど! 自分のなんですねっ」と手を打った。 「ここの包装のリボン、可愛いんですよね。他のひとが買って行くやつ、オレもわりと、良いなぁって見てることありますからね」  正直、フォローにもなってない気はいささかしたけれど、その気遣いがいまはありがたかった。 「……おふたり、仲良いんですね」  マスタがふふ、と小さく笑って言う。 「彼は、常連さんのなかでも、かなりの古株なんですよね。ここの人気メニューのいくつかは、彼が出してくれた案で」 「えっすげぇ」 「いや違いますよお! オレはただ、こういうのが食べてみたいなって言っただけで――」 「それでも嬉しかったんですよ。当時は、毎日来てくれるお客さんは閑古鳥くらいでしたからね」 「ふっふふ」  青年が吹き出すように笑う。そのくしゃっとなった顔がどことなく似ていて、じっと見つめていると、ひとしきり笑った彼と目が合った。 「あ、えっと。……そうだ、今度いっしょに、『逸れ羊』でごはん食べませんか? 初対面で早々なんですけど、はい。もし、良ければでいいので」  どうしようか。答えをしばらく考えて、「いや、いいです」と首を振った。 「常連さんって言ってたので、近いうちにまた、会えると思うんですよ。おれもナポリタン食べてみたいから、また行きたいなぁ、って思ってたんで」 「ホントですか!」  青年の目が、きらりと嬉しそうに輝く。 「ぜひまた、来てください。会えたら嬉しいですね!」 「はい」  ふたりと手を振って別れる。ご近所さんなので、同じ駅なのだそうだ。  おれもいちおうそうではあるのだが、遠いところまでせっかく来たので、もう少し、近くを散策してみたかった。 「喉が渇いたな」  流行り病が蔓延しているらしいから、しっかり水分補給しなければ。  自動販売機に向かう足が、心なしか重かった。  原因というか、思い当たるふしなどは……ない。  気のせいだろう、と軽く隅に追いやって、ボタンを押す。出てきた緑茶は澄んだ、美味しそうな液色をしていたので、ほんのり気分が和らぐ。 「どこに行こうかな」  出口のほうを見る。  昼過ぎの陽光が、広がっていく空間を照らし出していた。  目を緩慢な動きでこすり、おれはゆっくりと歩き始めた。        ◇  夕暮れの陽(ひ)がもう、のったりと昏い。  刷毛(はけ)で平板に塗りつぶしたような、長い建物の影を目で追いながら、背を丸めて歩く。  ごみごみとした都会の雑踏は、おれのようなお上りさんにはまだ早かった。 ――きょろきょろとしながら情報を多く取り込んでいたので、余計に疲れてしまった。 「……はぁ」  ひとは目から、最も大きな割合で情報を取り入れているという。  それゆえ、目の疲労感は言わずもがな……だったのだが、おれの特性上、それを上回りへたばっているのが、いまだ彼の世界の名残をとどめているこの、両の耳だった。  ひとけのない裏路地を歩いている今ですら、街の雑踏が聴神経をずきずきと苛んでくる。 「――ッ」  耐えきれずうずくまる。急激に込み上げてきた吐き気で、胃がでんぐり返りをしているみたいだった。  アスファルトの地面がやけに近くて、あ、と思った瞬間、自分のほっぺたがじゃりじゃりした感触でいっぱいになる。目の前にひっついた誰かの吐き捨てたガムが、ぼやけては鮮明になり、そして揺れるのを繰り返す。 (ここで寝てたらいずれ治まる――と信じたいんだけれど、多分通報されるし、そもそも死ぬよな? ってかそうだわ、死ぬわ。常識的に考えて)  ここを歩いているとき、周囲にあまり、ひとの生活している感じはなかった。住んでいるひととか、たまたま通りがかるひとなんて、きっとほとんどいないだろう。 (おれもここで終わりかあ。新生活って、こんなにはやく終わっちゃうことあるんだ)  意識の薄らぼけた頭がふと、左の手にやけに力が入っているのに気づく。十数秒経ってようやく、そっちの手に握っていたのが何かに思い至る。 「……ふは」  どんだけ執念深いんだよ。  思わず笑いが出るくらい、  おれはまだ、忘れてなど、――。  きいぃん、という耳鳴りだけが、最後におれを見ていた。        ◇  彼の哀しそうな顔が見えた。  びょうびょうと吹き荒ぶ冷たい風に、彼の発する言葉は端(はし)からかき消されてしまう。  でも彼は、それでもいい、と言いたそうに柔らかく笑み、背を向けて歩き出してしまう。  引き留めようと伸ばした手が、真白になっていて、驚く。それは彼も同じ、いやもっとだったらしかった。わぁあッ、と彼は派手な悲鳴を上げて、彼方へと逃げ去ってしまった。  後にはただ、正体のまるで分からない、茫漠とした光のシルエットと化したおれだけが、残されている。  ――そんな、夢を見た。       ◇  こほん、と自分が咳をした音で、目が覚めた。  何気なく、咳をしても一人、という、有名な言葉を想起する。『逸れ羊』で読んでいた文芸雑誌には、「文豪の名言、あなたはいくつ知っている?」という特集が載っていた。  天井の煌(こう)とした照明に、見覚えはなかった。後頭部には、やや固めの枕の感触。  畳の質感が、じかに背へと伝わってくる。 「あ」  低い声。そちらに視線を向ける。  長い髪をだらりと無造作に垂らした男性が、横からじい、と覗き込んできていた。「起きたか」 「……」  どこかその顔に既視感を覚え、起き抜けの鈍(にぶ)い脳みそで記憶をあさる。  だが、答えに自ら辿り着く前に、向こうからそれは提示された。 「うちのチョコレート持って倒れてるとか、いい度胸だな。見てみろこれ、紙袋がびっしゃげとおぞ」  妙な日本語を放ちながら、けらけらと笑う。この辺りの方言だろうか。にこにこしながら接してくれた店員さんと同一人物だとは、ちょっと信じられない変貌ぶりだった。  ぷらぷらと揺れているその左手には、おれの持っていた例の、紙袋。 「助けて……くれたんですか」  今度は、答えは返ってこなかった。彼はよっこいせ、と立ち上がり、背後に向けて呼びかけた。 「おう恋顧(こうこ)ぉ。目ぇ覚めとんしゃあよ」  数秒ののち、ふすまをそっと開く音。 「……」  隙間から顔を出したのは、数刻前、あの青年――タカに絡んでいた男だった。  気まずそうな顔をしながら、枕元に歩み寄ってくる。 「コイツが負ぶって帰ってきてん。よぉく見たらな、今日来てくれとったお客さんやったから、びっくりしたわ」  長髪をぼりぼりと掻き、店員さんが尋ねる。 「なー。今日の晩飯、カレー?」 「昨日もカレーだったろ。同じものばっかり食ってられっかよ」投げやりに応える。「想思(そうし)は野菜が食えてねぇからな、今晩は野菜ジュースだけ」 「真顔で冗談言わんとお」 「うるせぇな」  手を振って軽くあしらい、恋顧と呼ばれた男がこちらを向いた。 「体調、良くなった?」 「あ。……ハイ」  とりあえず頷く。どのくらい寝かせてもらっていたのか分からないが、大分楽になっていた。 「何。急病かなんか? ちゃんと病院行ったほうが良いよ」 「すみません……」 「良いよ。死なれたら怖いし」  自分の家のほうがゆっくり休めるでしょう。早く帰り。  短く言い、視線を落とす。長髪をクルクルしていた店員さんが、 「こいつコミュ障やけ。気にせんでええよ」 と言って、少し笑った。 「今日もな、友だちになってってナンパしに行って、二人ともにフラれててん。おもろいやろ」 「え」  不審者ではなくコミュ障だったのか。 「ここまでやと芸術点高そうよな」 「黙れよ。想思の分だけ、本当に野菜ジュースオンリーにするぞ」 「わあ、勘弁勘弁」  からりとした表情で笑う。白くとがった八重歯が、片方だけちらと覗いていた。 「……お店にいたひと、ですよね?」  どうにも信じられず確認してみると、「何や君(キミ)。ドッペルゲンガーとか、信じてるクチか? 紛うことなき本人よ」おかしそうなにやけ面がこちらを向いた。 「せっかく拾ってくれた職場やからな。そこ以外の場――まあつまり、主にこの家ん中では、俺は素ぅを出すことにしてんの」 「……はあ」 「社会不適合者の寄り合いだよ。ここは」  恋顧がつとこちらを見て、言う。視線が合うと、すぐにまた、俯き黙り込んでしまった。  顔を上げないままぶっきらぼうに、「おい。想思」と言う。呼びかけられた店員さんが、「なあに?」笑いながら応えた。 「今日買ってきたチョコ。……冷蔵庫に入れといたから」  想思の目が一瞬、まん丸くなった。  数秒考え込み、彼に訊ねる。 「え? あれ、自分用じゃなかったん?」  買いにきたとき、俺にやるとか言ってなかったやん――不思議そうに首をかしげると、長い黒髪が連動してゆらり、と揺れた。恋顧が畳を勢いよく叩く。 「――だあッ、もう!」  小気味のいい音が室内に響いた。耳を条件反射のように触る。けれども耳は髪に隠れていたし、うるさい耳鳴りも今は静かだった。  恋顧の顔は火を噴きそうなくらい真っ赤になっていた。 「……きょっ、今日、ホワイトデーだから。お前には正直、あげたくなんてなかったけど。誰も、受け取ってくれる奴とか、……いねぇし」  ごにょごにょと呟き、両手で隠すように、頬を包み込む。  得心が行ったというように、「ああ」想思が柔らかく顔をほころばせた。 「当たり前やろ。お前、友達おらんのやし」  おいで、と彼が言う。半分泣きそうな顔をして、恋顧が彼の横にぺたんと座った。なぜだか、いやにお行儀の良く見える、お姉さん座りだった。  幼い印象とは裏腹に長い脚を、想思が優しく撫でさする。わずかに、びくり、とたじろぐような動き。 「俺も、応援しとるけんなあ。頑張れよお」 「……うん」  子供のように素直に、恋顧が頷く。その両目には、薄く涙がたまっていた。  なんだか邪魔者になった感じがして、控えめに「お邪魔しましたー……」と言い残し、部屋を後にした。後ろから、どうもどうもー、気をつけてなー、と、陽気な店員さんの声が追いかけてくる。        ◇  自宅に戻り、手を洗ってキッチンに立つ。夕食の材料はいちおう、昨日のうちに調達しておいた。  今日は、うちもちょうど、カレーライスの予定だった。 (レパートリーとして簡単だし、そうそう失敗しないから、まあ重宝するよな)  野菜をカットし、大きめの鍋でぐつぐつ煮込む。甘口のカレールウを放り込み、ちょっと考えて、コンビニで調達したお手軽スパイスを二、三振り。 (この前作ったとき、けっこう甘かったからな――たぶんおれ、辛いほうが好みなのかもしれない)  鼻歌など口ずさみながらスマートフォンを眺めていると、良い感じに煮立ってきた。小皿にとって味見をする。 「熱つつ……」  前回よりも、美味しく感じた。今日はいろんなことがあったからだろうか、より塩分の沁みる心地がする。  ご飯を気持ち多めによそい、ルウを上からかける。何せひとり分だけなので、好物のじゃがいもを独り占めできるのが、ここに来てからの地味に嬉しい変化だ。 (……)  皿と口元を往復していた手が、ふっと止まる。 (……アイツ、ちゃんと食べてるかな)  野菜を食べないのは、アイツもおんなじだった。  今頃、あの店員さんと不審者(ではないらしいが、その印象がどうしても強い)は、仲良く食卓を囲んでいることだろう。  何というか……独特な雰囲気の、二人だった。  それぞれが個性的というのもあるのだが、なんだろうか――距離感、のようなものが。  炊飯器に投入する水の加減を見誤り、いささか芯の残る炊き上がりになった米を頬張りながら、彼らの姿を脳裏に浮かべる。 (あんな感じの友人は、おれにはいないなあ)  メリルはもっと、おこちゃまというか……とてつもなく一方的に、手がかかりまくるという感じだし。 「……あ」  カレーを食べ終わるころになって、ふと思い出す。  メリルは確か、福神漬けが大好物だった、ということを。 (人間界に行った先輩がくれたお土産で、唯一これだけを、くるったみたいに食べまくってたよな)  野菜を食べないというのが発覚したのも、その他の先輩からもらったその類のお土産を、「まずそう! おえー!」と言って遠ざけたり、別のやつがふざけ半分で、無理やり食べさせたときにもどしたりしていたからだった。 (あのときは大変だったなあ。手が返り血で真っ黒けになったし……)  今思えば、懐かしい思い出だ。  スプーンが、するり、と手から滑り落ちた。  金属音が思いのほかうるさく、びくり、と肩が跳ねる。 「……疲れてんな。今日はもう、早く寝ようっと」  やけっぱちに明るい声を出して、空になった皿を流しに運んでいく。くたびれたスポンジをくしゅくしゅと泡立てながら、もうそろそろ買い替えなきゃな、などとぼんやり考える。  水道から流れてくる水はまだ、きいんと冷たかった。  風呂に長いこと浸かっていると、身体が温まったからか、次第に眠たくなってきた。  ごそごそと布団に潜り込む。パソコンのセットアップはまた明日やろう――一日の予定を立てる猶予も与えられず、意識が底なし沼に引きずり込まれる。        ◇  また夢を見た。  手を後ろに隠し、わずかに傾いで揺れる身体。はにかむ頬は微かに紅潮している。まるで恋でもしているみたいに。  「キサリカ。みて」  たどたどしい口調。舌っ足らずな声で名を呼ばれたので、おれはふわふわとした空間で振り向いた。  メリルが一輪の赤いバラを、両手で大事そうに捧げ持ち微笑んでいる。 「綺麗だったから、プレゼント。……えへへ」  おれはそれをぶっきらぼうに受け取り、飛びついてくる彼の背中に手を回した。子供のように高い体温が、じわり、と心を温もらせる感じがした。  頬ずりをしてくる彼の頭をゆっくりと撫でてやりながら、ふと視線を切り下に落とす。不思議なことに、おれ一人の分しか、その白い床に影はなかった。   白い床がおもむろに、夏の日照をふんだんに受ける砂漠に変わった。  さらさらとした、一面の砂。メリルがその変化に気づき、はしゃいだ声を上げながらおれから離れて行った。走ってゆく後ろ姿。小さくなって、段々と消えてゆく。ぼんやり突っ立ってそれを眺め終わってから、地面でなお揺らめく己の影を再度、見詰めた。  ……おれは。  彼にどうあってほしいのだろうか。  広大な空間に、ただ独り。ピラミッドもなければ水場もない。見渡せども見渡せども、乾いた砂が時折、吹き荒ぶのみ。  いつの間にか、メリルがおれの目の前に戻ってきていた。心配そうな表情が、ゆらゆらと揺れている。砂上の蜃気楼。  しろい手が、おれに向けて伸ばされる。とてもひんやりとして、冷たい手。  心地いい、と思った。  その手を両手で包むと、彼はびっくりしたみたいに刹那、身をこわばらせた。もう片方の手が、静かに重ねられる。  彼が持っていたバラは、知らない間に姿を消していた。  視界が暗転する。黒々と光の無いのに、何故だか他者の、曖昧な外形だけがはっきりと見える世界。――かつていたおれの故郷に、おれと彼は二人、目を伏せて相対していた。  背後から光が差してくる。ここには存在し得ない、強い太陽の光だ。眩しそうにメリルはぎゅっと目を細め、一歩後ろに退(しりぞ)いた。  名残惜しそうな瞳。「ねえ。行かないでよ」その視線の先――おれの左の手には、今日、買ってきたチョコレートが。彼は光に輪郭をぼやけさせながら、しょげた顔で言う。 「それ、ぼくにでしょう? ねえ。キサリカ。――戻ってきてくれないの?」  白い光が四方に弾け、何も見えなくなる。  ――彼の姿も。        ◇  跳ね起きる。  額には玉の汗。毛布は蹴っ飛ばされ、ベッドの足元から半分はみ出していた。  深く、息を吐く。心臓が破裂しそうに脈打っていた。  まぎれもなく、今のは、悪夢だった。 (おれは最低だ)  自然、吐き出した毒ガスみたいな呻き。それを充満する前に自分で呑み込みながら、よろめく足で食器棚へ向かう。水が飲みたかった。冷たい水が。  晩冬の海のように濁った昏い、息の詰まる、光など無い場所の空気から、逃れるために。  でも、ようやく納得ができた。先生の問いかけた言葉に。  そこには確かに月があった。たったひとつの、無邪気な。  雑誌の文豪特集。洒落ていてそして、迂遠すぎる物言い。  おれは確かにそれを知っていたし、同時に美しいとも思っていた。  氷をいくつも、乱暴にコップへ放り入れる。その拍子に飛び散った微細な欠片が、腕の皮膚の上で音もなく融けた。  注(つ)いだばかりの水道水をごくごくと呷り、虚空へと目を遣る。  空々しい蛍光灯の光しか、いまはもうここにはない。  黄金色の瞳が、記憶のなかで微笑む。  この空には永劫、夜に寄りそう月は上らないのだ。  冷蔵庫から紙袋を取り出し、食卓に置く。なにぶん独り暮らし用の小さな卓なので、そこにあると、幾分か華美な包装に思えた。シルキーなリボンが白々(しらじら)と照らされながら、特に何を言うでもなく澄ましている。ややひしゃげた袋が、かさかさ、と不安定に揺れていた。 「…………」  両手で目をこすると、長い袖がじっとりと濡れた。  なぜだか涙と嗚咽が止まらなかった。  ものも言わず垂れている朱いリボンを見、ゆっくり頭をもたげる記憶。  ――あの綺麗なバラのチョコレートには、お酒が入っていると書いてあった。  この世界に来てから、お酒を飲んだことなど無論ないし、それに頼ることの危険性も重々承知している。  けれど、――けれど今だけは、  それに背を預けて、何もかも忘れてしまいたかった。 (これを食べたら、今夜はきっと眠れるだろう)  この涙も、嗚咽も。  息苦しさも動悸も。  これを食べたらきっと、おさまるだろう。  ふらつく足で立ち上がる。紙袋を引き寄せ、震える手でていねいに、小洒落た包み紙をはいだ。  かり、と快い音。  甘くて、ほろ苦くて、揮発するアルコールの風味もして、流れ込んだ涙で塩辛くて、よくわからない味だった。  詰まりかけた鼻を、微かに抜けていくオレンジピールの香り。それがどこか、哀しかった。 (オトナというか……正直、よく分からないな)  目を閉じると、柑橘の香(か)がより引き立った。商品説明の書かれた、二つ折りの紙を開く。にじんだ視界に、小さなカクテルグラスが映った。そこに付記されたお酒の名前を、明日調べてみよう、と思う。  ゆっくりと、舌の上でチョコレートが蕩けていく。飲み下すのが少し、惜しかった。心地良い眠気が襲う。自分は、どうやら、お酒にはあまり手を出さないほうが良い体質であるらしかった。  唇をほんの少し開くと、オレンジの苦味を含んだ呼気が空間に溶けた。 「……すき……ほんとうに……おれは……?」  ろれつの回らないままで、呟く。  まるでアルコールのように記憶がなぜか、揮発していくような気がして怖くなって、ぎゅう、と紙袋を抱きしめた。腕のなかで、ぐしゃ、と包装の、つぶれる音。  背を丸めて、しばらく泣いた。  立ち上がり、残りの八粒をそっと、冷蔵庫にしまう。  椅子に腰を掛け、息を吐き、ゆるゆると目を伏せた。  カフェオレの瞳が、まどろみに揺蕩う間際。  傾いだ彼の身体を、物言わぬまま見つめる影があった。        ◇  背の高い、襟元がボロボロの服を着た青年。薄く曇った空に浮かぶ満月のような瞳が、じいぃっ、と彼に、視線を注いでいる。  青年は、半開きのドアの向こうにある、脱衣所内の鏡のなかに立っていた。  鏡の前に佇んでいる、というわけではない。ここは正真正銘、キサリカだけの住処だった。  青年が鏡面の向こうで、ゆらり、と細長い体躯を揺らす。項垂(うなだ)れたキサリカを覗き込み、ぼそりと呟いた。 「――寝てる」  起きてよ、というように、向こう側から境目を、どんっ、と叩く。数回それを繰り返し、不満そうに頬を膨らませた。その口元が、不意にふんわりと緩む。  自身の後ろに向かって、振り向く。ふんふんと頷く仕草。一瞬ののち、うれしそうにぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。大きくてまん丸い両目が、無邪気な笑みの形になる。  青年が振り返る。  鏡面にぺたぁっと頬をくっつけ、彼は囁いた。 「ねぇキサリカ、待っててね。――もうすぐしたらぼくも、そっちに行くから」  くるり、と弾むように背を向けた後ろ姿が、だんだんと暗がりに消えていく。  肩まで蓬々と伸ばした黒髪が、楽しそうに揺れていた。        ◇  深夜。  何か、声を聞いた気がして、おれは目を開け、あたりを見回した。  なんとなく、洗面台のほうを見る。 「……」  とりあえず、おばけなどは映っていなかった。 (笑えるよな。もとはといえばおれだって、向こうの住人だったっていうのに)  自分に少し呆れて苦笑しながら、椅子から立ち上がる。  酔いが残っているためか、まだほんの少しだけ、足元がふらつくけれど――それでも、歩き出せないほどではないだろうから。  とりあえず明日に向けて、もうひと寝入りしようと思うのだ。  そうすればきっと、きっと、  このなんだか胸が苦しいような、閊(つか)えるような、  胸のうちから溢(あふ)れかけている感情にも、いずれ終わりが来るのだろうから。 【I had been full of you, therefore being empty.】                     ――【了】
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