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犬と星野
右胸が冷たい。
感覚が無くなっている?
「ハナブサ!いいから行くぞ!」
大弥彦は俺を追い立てるが、彼女の声に焦りが見えた。
そうだ、どうして急いでここから逃げなければいけないんだ?
俺は星野家の開け広げられた玄関を見返した。
俺が瞼を閉じた時に見えた映像、……紗都子が星野の腹にダチュラの根を突き刺して、…………!
俺は走り出していた。
星野家の玄関の中に向かって。
「こら! 馬鹿! お前は行くんじゃない!」
俺の背中の布地は大弥彦に引っ張られたが、数秒前と違って石段の上段に辿り着いている俺には、俺が星野と対峙していた時には無かったものがしっかりと目に入っていた。
板間の上に血を擦り付けたと思われる、指の痕の残る赤い筋だ。
「血の痕があるじゃないか!」
数分前に大弥彦が言った台詞。
アンブが俺を守るために犬に念を送った。
「犬に何をさせたんだ!」
俺の大声に大弥彦はびくりと震え、俺の服を掴む指は緩んだ。
俺はこれ幸いと体を大きく回して彼女の手を振りほどき、ついでという風に俺は自分が抱いていた紗都子の人形を大弥彦に押し付けた。
「ちょっと!」
「頼むよ!」
靴を履いたままだが、俺はそのまま星野の家に上がり込んだ。
襲われた人間はどこに逃げる?
玄関から伸びる廊下は二本あり、真っ直ぐに伸びるのは家の奥に向かうもので、左側に真っ直ぐあるものは玄関を通り過ぎれば縁側となる。
俺は家の奥に向かった。
外に逃げてどうする? 犬の足から逃げられるはずは無い。
犬から逃げるには、障害物が沢山ある方にするはずだ。
「こら、勝手に入るな! アンブのやった事なんか、お前が目にする必要なんか無いんだよ!」
「俺の為にやった事なら、俺が止めなきゃだろ!」
走った所で家の中だ。
右側にある階段を通り過ぎ、俺は方向を転換した。
階段を昇るだろう。
犬は高い所が苦手な筈だ!
俺は階段を駆け上った。
「ほしのさん! ほしのさん! 大丈夫ですか!」
二階に付けば、星野がどこに逃げ込んだのか一目瞭然だった。
二部屋あるうちの一方だけ、襖が内側に倒れ込んでいるのである。
俺は荒らされた部屋へと走り込んだ。
「ああ!」
そこで、全部が終わっていたのだと知った。
古ぼけたタンスが三竿と姿見が置かれた四畳半程度の狭い部屋には腰高窓があり、その窓は大きく開け広げられていた。
窓を開ける前に障子戸を開いたからか、白い障子が大人の手形らしきもので染められている。赤い血で作り上げられた手形だ。
「落ちたのか? 屋根を伝って逃げたのか?」
恐る恐る窓辺へと近づき、そこから外を眺めようと身を乗り出した。
「はあ!」
哀れな犬が三頭、俺達がいた玄関の反対側、窓の下となる地面に積み重なるようにして横たわっていた。
窓から勢いよく飛び出て、狭い屋根の瓦で足を滑らして落ちたのだろう。
星野は大丈夫かと、俺は窓の下に広がる屋根で良く見えないからと、窓から身を乗り出した。
「わああ!」
窓のすぐ下から、俺を掴みかかってくる手があった。
俺はその手に首を掴まれ、その掴みかかって来た勢いのまま、手の持ち主によって部屋の中に仰向けに転がされた。
窓の下に隠れていたのか!
「こんのくそ餓鬼がああああ。ぶち殺してやるううううう!」
血走った眼は、彼が放った言葉通り、俺を殺してやりたいと物語っていた。
首にめり込む指だって、俺を殺してやりたいそれだけだ。
『はなせ!』
声にならない声を出しながら、俺は膝を持ち上げて星野の腹を蹴った。
ぶよんとした粘土のような質感しか、俺の膝に感じなかった。
俺はもう一度、今度はさらに強く、膝を星野の腹に打ちこんだ。
星野は大きな男だった。
でも、虹河みたいに鍛えている男じゃない。
なのにどうして! 腹を蹴られても、彼は痛みも何も感じないんだ!
「コノクソガああああ。あああはははあは。お前が手の中に入るとはなああああ。ああ、ああ!お前を殺せば花房は安泰だああああ」
星野の両手はさらに強く俺の首を掴み、俺はこれから首の骨を折られるんだ、と、血走った星野の両目を見つめながら考えた。
死んでしまうのに他人事だな。
そんな事も考えた。
そして、目を閉じた。
死ぬのならばこんな男の顔ではなく、走馬灯で楽しかった記憶を見つめながら死にたい。
最後に見る夢なら、兄さんと虹河さんと花火を眺めながら歩いた、あの隅田川の花火大会がいいな。
「俺は浅草サンバカーニバルの方がいいな」
え?
バチン!
『はふ!』
空気が漏れた声を俺があげたのは、星野に首を絞められたからではない。
電気が弾ける音と衝撃が、俺の右胸で起きたからだ。
俺は目をぱっちりと開けた。
俺に覆い被さっていた星野は、俺の首を絞める指の力を解いていた。
彼は気絶している? そう気が付いたそこで、俺の目の前から吹っ飛んだ。
星野は横にあった洋箪笥に体を大きくぶつけ、箪笥の上に飾ってあったガラスケース入りの人形が、二、三回ぐらついた後に彼の上に落ちた。
「大丈夫か! この馬鹿!」
俺は自分の痛む喉を押さえて咳き込むしか出来なかったので、自分が大丈夫だと分かるようにして大弥彦に頭を上下させてみせた。
いや、声が出たとしても何も言えなかっただろう。
いや、言いたくはなかっただろう。
あの声は虹河のものだった。
俺の右胸に、いた?
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