後はアンブのお仕事ですが

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後はアンブのお仕事ですが

 俺の後ろで田村の家族の囁き声が聞こえた。 「お義母さん、大丈夫ですよ。警察があの少年の被害届なんか引き受けませんから。あんな茶色の髪をした浮ついた子供ですよ」 「そ、そうだ、お前。大丈夫だ。そうだ、冷静になれ。ここにいるみんなはお前の味方だ。何も起きなかった。皆がそう言ってくれるさ」 「そうよ、ママ。何も心配することは無いのよ!」  田村の夫は、退職する前は小学校の校長をしていた。  田村の娘も娘の夫だって、クラスを受け持つ教師であると国枝に聞いていたので、田村が幼い子供である圭を殴り飛ばした事実を目の前にして咎めるどころか、こんな台詞を簡単に吐くことにぞっとした。 ――悲しい事だがな、虐められ役を一人作ることでな、クラスをまとめるって方法を取る教師も多くいるんだよ。  朝食の席での大弥彦の言葉が頭に浮かんだ。  この田村一族は、自分が指導力のある教師という評価を得るためだけに、今までどれだけの子供を無意味にいじめ地獄に落として来たのだろうかと、俺は腹の底から怒りが湧いた。 「ご親族、全員が公務員ですものね!」  楽しそうな国枝の声に俺ははっとして、披露宴会場を見回した。  既に披露宴会場に散っていた国枝の部下達は、来客者全員を逃がさない勢いで要所要所に立っている。  ここからは国枝が受け持つパートだ。  失言をした娘婿は言うに及ばず、教育委員会の重鎮で今はどこぞに天下りしているらしき田村の夫、それから、この傷害事件を目にしながら偽証する予定らしい田村の親族全員を、偽証するならば国枝が恐喝して見せるらしいのだ。 「こんなに脛に傷を持つ小金持ちは、なかなかいませんからねえ。搾り取れるだけ搾り取りますよ。ぜんぶ、俺達のボーナスになる」  俺は圭をぎゅうと抱きしめ、退場するだけの自分の進行方向へと前を向き、後はもう振り向かずに歩きはじめた。  国枝と圭に与えられた俺の仕事は、圭が受けた怪我について大声を上げて彼を庇う事と、彼を会場から無事に連れ出す事、だけである。  国枝の部下の前田は、身長が高く背筋の良い立ち方のせいか虹河を彷彿とさせる。そして俺が初対面の虹川を怖い学校の先生に見えたのと同じ、スーツ姿の彼はどこかの省庁に勤めているような堅苦しさと威圧感を持っている。  そんな彼が俺の為にドアを開ける動作は恭しさに溢れていることが俺をビクつかせ、さらに俺への追い打ちのように彼は通り過ぎようとする俺の耳に囁いた。 「あなたはいい声をお持ちだ。たった一声で全員の意識を集中できました」 「あ、ありがとうございます。えと、ま、前田さん」 「名前を憶えて下さるとは光栄ですよ」  前田は硬い表情の顔を柔和な笑い顔にして見せた。  一瞬で人好きのする優しそうな男に彼は変わってみせたが、ドアを閉める時に俺から背けた顔つきと眼つきは俺の背中の毛を総気立たせるものだった。  虹河が特殊警棒を振り回した時を彷彿とさせたのである。  扉が俺の前で完全に締まり切った。  俺は会場内と完全に切り離されたのだ。 「怖っ!」  普通の世間に戻ってきた俺の一声は、それ、だった。 「ようやくアンブが怖い奴らだってわかったの? ほら、移動するよ」 「あ、先輩! って、先輩が可愛い格好をしている!」  俺の頭は大弥彦に軽く叩かれた。  大弥彦は袖がレースになっているカットソーとチュールが重ねてあるロングスカート姿をしていた。  髪だって下ろしてあるので、いつものもっさり系ブスからほんの少しだけ離れた姿となっているのである。 「ホテルにくっついて建っている大型ショッピングセンターが安くてな。ちょ、ちょっと今風とやらを体験してみただけだよ」 「すっごく似合いますよ! いっつもそういう格好をしていればいいのに! でも、黒ぶちメガネはデフォなんですか? 絶対なんですか!」  俺の言い方が乱暴なのは仕方がない。  黒ぶちメガネのせいで、せっかくの可愛らしさがぶち壊しなのである。  落ち着いて見直したら、やっぱりもっさりブス系にしか見えないよ? 「ば、ばあか! は、外せるか! 私は目が悪いんだ!」 「メガネをすると見えにくくなったりしますものね」  俺の腕の中の怖い七歳児が呟き、大弥彦はしまったという風に口を閉じた。  俺はどういうことだと圭に確かめようとしたが、彼は俺の腕から降りたがる素振りしか見せなかった。  俺は彼を抱く腕に力を込め、彼が俺の腕から逃げ出してしまう前にと、会場前から遠ざかるための大股の一歩を踏み出した。 「ちょっと! 下ろしてください!」 「病院に君を連れて行ってから。あとで首筋に痛みがくるかもしれないし、顔は絶対に腫れるよ。俺はさ、大体は聞いていたけど、君が殴られる予定なのは聞いていない!」  おや、圭は初めて俺に怯んだ?  けれど、俺よりも世間を知っている子供は、俺に酷い真実を告げた。 「原田に殴られて病院に僕は駆け込みました。医者は母が言った、僕が階段から落ちたって言葉を鵜呑みにしましたよ?」 「そんな医者、告発したいな!」 「もうその医院は閉まっています」 「え、って、君が虐待を受け始めたのはここ一か月くらいだよね! 一か月でも酷い話なのに!」  俺は圭を取り落としそうになり、圭はそれをいい機会だという風に俺の腕からぴょいっと下に飛び降りた。  そして俺に自慢そうな笑顔を見せつけたのだ。  殴られたばかりの頬が赤いせいで、まるで初陣の戦場を生き残った兵士のようにも見えた。 「僕の怪我の写真をネットにあげました。口コミサイトに。それに怒った人達が病院に抗議の電話を掛けてくれたのです」 「怖いよな。不特定多数の悪意を全部受けるのは。あの会場の中の田村は今後そういう日常になるんだ。あの女が口封じしていた二十六人の子供達は全部不幸だろ? 成功者が誰もいない。自分達をこんな人生にしたのは、この今の不幸は全部あの女のせいだって、これから全部田村へと向かうんだ」  大弥彦は圭の頭を優しく撫でた。 「お前はよくやったよ。紗都子に向かっていたあらゆる怨嗟を、元凶の田村に全て返して見せた」  圭は誇らしげにフフっと笑った。
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