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親戚だった上級生
教室に入るや低めの女の子の声が俺を呼び止めた。
「ハナブサ君」
俺は振り向いて、ずさっと後退った。
長い黒髪をしっかりと二本のおさげにして、黒ぶちメガネをかけているという外見の、校内で「やばい奴」と有名な一学年上の有名人だった。
彼女を揶揄うと三日以内に死ぬ。
彼女の机を汚した奴の家が破産して夜逃げした。
告られたらどうやって逃げればいいのか分からない相手だ。
花房家の俺の知らない財力の為なのか、俺はこの学校に転校してから付き合いたい男の子のリストに載っているらしく、時々こうやって告白されるのである。
でも、無理!
本気でどうやって断ればいいか分かんない相手だよ?
そしてビビった勢いで後退った俺だったが、みっともなく後ろに転ぶことも無く、背中を友人に支えられていた。
しかし、俺が礼を言う前にその悪友は裏切り者でしかなく、俺の背中を強めの力で押しだしてくれた。
「おう!」
俺は意志とは反対に、自分を呼んだ女生徒の前に飛び出しており、いやいやながらその女の子の話しを聞く事にした。
「……それで、ええと、俺は誰とも付き合う気は無いから」
「自意識過剰ね」
「え?」
「今度の法事について話に来ただけよ」
「え?」
俺の驚く顔が彼女にはツボだったのか、脱力したのか、校内の有名人、大弥彦篤子は俺の右手首を掴むと俺を教室の外へと引っ張った。
廊下に出ても彼女はずんずんと俺を先へと連れ出そうとしており、俺は人の姿も見えなくなった廊下でとうとう心細さから叫んでいた。
「え、ちょっとまって、これからHRだし! 授業始まるし!」
「外見と違って真面目なのね」
「俺はこれが地毛です。薄茶色なのは地毛です。何度でも言うが、俺は品行方正に生きているんですぅ」
「あら、ネクタイだってしていないし、そのシャツは規定のものじゃないじゃないの。何が品行方正よ」
俺だって崇継のように真っ黒の髪と真っ黒の瞳を持ちたかった。
あの虹河だって、髪は焦げ茶色でも瞳は真黒だ。
あの二人と歩くと俺だけ軽薄そうに見えるので、髪の色と瞳の色が薄いのは俺にはとってもコンプレックスなものなのだ。
そして、怒りのまま言い返したのは良かったようだ。
恐ろしい女、大弥彦篤子様は、ふっと俺を鼻で嗤った後、俺に授業を受ける権利を返してくれたのである。
「中休みにまた来るわ。親戚として伝えたい事があるから」
「ねえ、それって、信州の父が危篤、ということも関わっているの?」
うあ、大弥彦の目はかなり見開いた。
そして、その驚き顔をまじまじと見つめた事で、彼女が普通以上に整った顔立ちだった事に初めて気が付いた。
俺が髪の色でとやかく言われるのにウンザリして制服を着崩しているのと反対に、彼女は整い過ぎている顔を隠すために、きっちりとした制服の着方に髪型をしていたのか。
驚く俺に対して、さらに彼女は追い打ちをかけて来た。
「あなたは花房の事を何も知らないのね」
「えと、中休みは時間が短いし、えと、昼休みにしていい?俺は花房家の事何にも知らないから知っている事は教えてほしい。えっと、場所は、図書室?」
彼女は図書室で笑ったが、それでも「いいわよ」と言って去っていった。
そして、俺は教室に戻らなかった。
三階の誰も来ない非常階段の踊り場に出ると、携帯を使って俺が一番信じている人に電話をかけたのだ。
もちろん、兄へ、だ。
崇継は電話に出なかった。
そこで俺は虹河に電話を掛けた。
「どうした?」
「あの、あのさ。兄さんは大丈夫なんだよね。兄さんはこれからも大丈夫なんだよね」
虹河に尋ねながら俺は兄と通話できなくて良かったと思った。
きっと父の危篤で一番弱っている兄に、こんな弱い弟の泣き言を聞かせなくてすんだのだから、と。
父を知らない俺の頭の中でさえ、心を病んだ父のようになる、そう言った崇継の記憶がグルグルして、酷く不安で脅えてしまっているのだから、当の兄自身は何と考えているだろうと考えたらいたたまれないじゃないか。
「ハナブサ、お前はいつもの英でいろ。崇継がおかしいと思ったらな、おかしいよって言ってやれる弟になれ。ちゃんと嫌な事は嫌だって言える弟になれ。いいか、それでも俺も崇継もお前を嫌わないぞ?」
俺が「はなえ」と名前の呼び方を変えられて虹河が怒ったのは、俺が何でも崇継の言う事に従うその象徴の出来事だったからなのだろう。
「わかっている。でも、従ってしまうんだ。嫌って思うよりも、俺が出来る事がある方が嬉しいんだよ」
「……大丈夫か? 今日は早引けるか? 迎えに行くぞ?」
「うん。大丈夫。昼に約束があるし」
「女か?」
俺は、そう、とだけ答えた。
虹河の低くてかすれた笑い声は、いつ聞いても心を温かくしてくれる。
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