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マダムの期待が空振りに終わっても、日当を払うつもりはあるのだろうか。ビジネスは、些細な疑問も残してはならない。
「念のため尋ねるが、ダンナにやましいことがなかった場合、報酬はどうなるんだ」
具体的な金額の代わりに、白い右手が飛んできた。俺の頬が小気味よく鳴る。
「おいおい、ビンタかよ」
俺は腹が立つよりも、マダムの不思議なワザに目を見張った。腕の振りは存分なのに、まったく痛みがない。
「おまえは夫の不実を白日の下にさらせばいい。私の勘が誤りだとでも言うのか。この無礼者め」
時代がかったセリフを吐き、マダムがソファから立ち上がった。
態度が変わりすぎだ。依頼者と請負人の信頼関係などあったものではない。下僕にでも命令する口ぶりは、まるで女王さまだ。
マダムは自分の名前すら言わずに事務所を出ていった。これは本当に仕事として成立しているのか。大家にあらためて口利きしてもらうのは、家賃を納めていない身にとってはなかなかに酷な作業となる。
どうしたものかとひと晩考えていたら翌朝、緑の枠に縁どられた封筒が郵便局員によって届けられた。現金書留を目にするのは久し振りだ。
サインののちに受け取った封筒は、保証上限額を予想させる厚みがあった。まさか千円札を詰めこんでいるとは思えない。
差出人の欄には「喜久川原美沙」とある。めずらしい苗字だ。マダムに違いない。
震える手で開けた封筒からは万札が顔を出した。数えると五十枚。前金でこの額だ。どうやら、マダムは本気のようだ。
金のほかには便箋が一枚同封されていた。携帯電話の番号と、浮気相手の名が記されている。
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