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しかし、店から出てきた二人の間に親密な空気はなかった。離れて見ていても、由香理が怒っているのがわかった。まあまあ、といった形で社長が由香理の肩に触れた刹那。勢いよく、由香理は手を払いのけた。俺の耳にまで、甲高い怒鳴り声が届く。
「べたべた触らないで。社長だと思って黙っていたらいい気になって」
おいおい。そこまで言うのか。驚いたのは喜久川原も同じようだ。払われた手首を握り、口をだらしなく開けている。
由香理は鍵束を社長の胸に投げつけ、足早に去っていく。外回り用のコンパクトカーは社長が運転して帰れ、ということなのだろう。
タクシーを拾い、由香理は消えた。社長に思いっきりのノーを叩きつけ、仕事場からばっくれる。この先、由香理はキクてつフードでどう立ち回るつもりなのか。
不遇な身の上を知ってしまうと、情けがわく。孫を心配するじじいの気持ちで、俺は連日、由香理を尾行した。社長に啖呵を切ったあとも平気な顔でキクてつフードに出社するのは、鋼の精神力だ。ハングリーさが、現代の日本に住む人々とは違うのだろう。暗い顔で駅前通りを流れていくやつらに、由香理の爪の垢を煎じて飲ませれば、今の世の中、もう少し明るくなる気がする。
社長と由香理。もう、二人の間にコンタクトはない。社長の一号店への顔出しもなくなった。由香理との接点作りのために加盟店巡りをしていたのだろう。
探偵業では、浮気の調査はもっとも多い仕事だ。三十年間、男と女のやましい臭いを追い続けた俺でなくても、マダムの勘は間違いだったと結論するはずだ。そして由香理を見守る俺は、驚愕の事実をつかむのだった。
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