身辺調査

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 ババアは、自分のビルを崩壊させる勢いでドアを閉めて出ていった。重ねた鍋を床に叩きつけたような音も、とりあえずは家賃を払わずに済んだ安堵と、新たな仕事を手にした喜びで清々しくすらあった。満ち足りた気分でコーヒーに口をつけた。すっかり冷めていた。時の流れは、いつも無情だ。  ババアの言葉から三日。朝の散歩を滞りなくこなし、コーヒーをカップに注ぎ終えるとドアフォンが鳴った。昔ながらの受話器を壁から取る。築三十年を超えるビルでも、スピーカー越しの声は鮮明だった。 「大家さんから話は聞いてるわね。夫の身辺調査をお願い」  いかにも高慢ちきな女が思い浮かぶ口調だ。男を下に見て、さっさと離婚しそうな女。俺は無言でサムターンのつまみを回し、武骨なドアを押し開いた。  不遜な声音に俺はいささか機嫌を損ねていたが、依頼人を目にした瞬間、愛想笑いを浮かべる自分を感じ取っていた。  依頼人は、後光が差して見えるほど美しかった。マダムという呼び方がこれほど似合う女もいないだろう。瞳の光に吸い寄せられる。  ふた重のまぶたはパッチリ開き、垂れ目。まっすぐで高い鼻。ぽってりとした唇。明るいブラウンに染め、縦に巻いた髪は舶来物の高価な人形を想像させた。どの角度から見てもイイ女。俺の好みに合わせて作りこんだような顔面に、ついつい見入ってしまった。 「どうも、お待ちしておりました」  マダムに気に入られようと、似合いもしない猫なで声が自分の口から出たことに美人の破壊力を知る。
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