16.赤毛の吸血鬼(前)

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16.赤毛の吸血鬼(前)

 幾日も同じ事の繰り返し。時折赤毛からかまされるセクハラ発言にすら、ジョシュアは嫌でも耐性がついた。あれから赤毛の攻撃を食らい続けておおよそひと月程。ジョシュアはもう腹に風穴を開ける事も、手脚を失う事も無くなっていた。  相変わらず赤毛の攻撃は食らってはしまうものの、身体に傷を作る事も随分減っていた。 「なーんだぁ、もう慣れきっちゃってつまんないの。血ィ飲めないじゃんか」  いつものように件の屋敷で休息をとっていた所で、赤毛が何故だか残念そうに言った。大ぶりのソファにぐでっと身体を預けていたジョシュアの隣、前のめりになって両脚に肘を付き、顔の前で手を組んで深妙な顔付きをしている。相変わらず理解しきれない赤毛の物言いに、ジョシュアは思わず口を挟む。 「師匠だって言うなら喜べよそこは」 「ええぇーー?」 「血なら俺以外からも貰ってるだろ」 「うぅーーん」 「……一体、何が不満なんだ」  いつも以上に意味の解らぬ赤毛に、ジョシュアは眉間に皺を寄せた。その日は一日、赤毛はうんうん唸っていたが、次の日には元通りだった。ジョシュアも、あの男の唯の気紛れだろうと気にもしなかったが。その理由は後日知れた。  いつものようにボロボロにされて、クタクタになりながら寝床に入ったジョシュアは、気絶するように眠りについた。  もうすっかり夜型の生活にも慣れてしまって、赤毛に合わせるように昼間はこんこんと眠りにつく。起きればすっかり夜も更けて、魔の者達が活動を始める時間だ。  何日も同じ事を繰り返していれば、ジョシュアも違和感などは感じなくなった。その日もまた、同じ日の繰り返しだと、ジョシュアはそう信じて疑わなかった。  ジョシュアが眠りについてそれ程経たない時分だろう。ふと気配を感じて、ジョシュアは目を覚ました。けれどもまだ寝足りない頭では目を開けている事もままならず、ジョシュアはゆっくりと目を閉じる。赤毛がまた布団に潜り込みに来たのだろう、と寝ぼけ眼に目を瞑ったままその気配だけを追った。  けれどもいつまで経っても、その気配は動く様子を見せなかった。ただ、それがジョシュアをジッと眺めているようなのだ。何かを言うでもなく、佇んでいる。らしく、ない。  流石に不審に思ったジョシュアが、ようやく目を開けて首を捻ると。すぐ傍らに、ジョシュアを見下ろす赤毛の目があった。  その目と、ジョシュアの視線が合わさった瞬間。背筋がゾクリと震えた。頭で警告音が鳴り響く。逃げなければ、と頭では分かっていても、まるで蛇に睨まれた蛙のように動く事が出来なかった。  いつものような、どこか軟派な赤毛の気配はすっかり成りを潜め、ただ無心に、獲物を狙う時のような冷たい目をしていた。きっと、目の前に居るのがジョシュアだとすら分かっていないかもしれない。  普段のようなおちゃらけた軟派な雰囲気も、殺気を出した時のような力強さすらもない。ただの無機質な怪物だ。  何故赤毛がそんな事になっているのか、ジョシュアには分からない。けれどもその目は、本気で彼を捕食しようとしているのは、嫌でも感じ取れた。けれども未だ、ジョシュアの身体は動かない。吸血鬼という魔族の恐ろしさをまざまざ感じ取りながら、何度目かも分からない死をすら覚悟する。  赤毛の目と視線を合わせてしまった時点でもう、手遅れなのだ。普段の赤毛の様子から忘れがちではあるが、赤毛はジョシュアなんかと比べれば、何倍も吸血鬼らしい吸血鬼なのである。  赤毛はゆっくりと動き出した。  必死で赤毛の術を破ろうと魔力やら体力やらを総動員して抵抗しようとするジョシュアだったが、未だ傷の治り切らぬ疲れ果てた身。赤毛の本気には普段ならばまだしも、到底敵いやしない。  せめて術の源である赤毛の目が逸れさえすれば、ジョシュアにも勝ちの目はあるのかもしれない。  だがそこは元が用意周到な赤毛の事、無意識下においてもそのような下手を打つ事はなかった。  赤毛は、舌舐めずりをしながらゆっくりとジョシュアのベッドの上へと乗り上げてくる。碌に動けもしない彼を転がし、上衣の首元をずるりと引き下げる。  目の前に現れたであろうその首筋を赤毛は何故だかしばらくの間、噛んで、舐めて、まるでその質感を愉しむかのように好き勝手に弄り倒した。  視線が逸れた今がチャンスであるはずなのに、急所を狙われているその緊張感からか、ジョシュアの身体は竦んでしまった。そしてそのチャンスは、あっという間に潰えた。  気付けば赤毛は、大口を開けて、ガブリとジョシュアの左の肩口へと思い切り喰らい付いたのだった。 「ぐッ――!」  鋭い痛みと共に、ぐいぐいと奥まで食い込んでくる牙が赤毛の吸血の本気度を物語っている。正気では無いのには気付けたが、対処法などどう考えたって思い浮かばない。力では到底、この男には勝てないのだから。  更に悪い事に、ジョシュアはそこでとんでもない事に気付いてしまった。牙の食い込んでいる傷口は確実に痛い筈であるのに、そうではない感覚を同時に覚えてしまったのだ。  痛みの中から僅かに湧き上がる快の感覚。認識した途端、それがじわじわと広がっていくような感覚に悶える。 「う、ぐぁ、あッ――!」  ずるずると容赦なくその血液を吸い上げていくその感覚に、何故だか身体が火照った。全身から力が抜けていく。  それこそが、吸血鬼が獲物を喰らう為の能力の効果である。獲物の抵抗を減らし、楽に捕食する。ましてや、相手はミライアとも謙遜無い程に力のある吸血鬼だ。  例え相手が効果の最も効きづらい同類の、しかも男であってすらそれなりに効いてしまうと言うのだからその強力さを窺い知れよう。  最早、抵抗する為の魔力を巡らす事もできず、ジョシュアは完全にされるがままとなってしまった。ミライアに殺された時とも違う、全力の魅了の力。ここ1ヶ月程で、赤毛の血を多量に摂取してしまったのも悪かった。  眷属にこそされてはいないが、己よりも強力な力の者に服従してしまうのは吸血鬼含む魔族に共通する性質だ。故にジョシュアは、本能から赤毛に対する抵抗する気力をかなり削がれてしまっている。加えてジョシュアはこの数日間ずっと、赤毛に散々痛め付けられていて、いっそ恐怖心すら抱いているのは言わずもがな。様々な意味で、そこそこ危険な状況にある事は確かだった。  血が抜け出ていく事を意識する度、ゾクゾクと背筋が震え、あらぬ所にまで熱が集まり出す。時々赤毛の舌がぬるりと愛撫するように蠢いたり、首筋やら耳元やらを指でなぞったりするものだから、ジョシュアはその度にビクビクと身体を震わせる事しか出来なかった。  まずいまずいと思いはすれども、身体はまともに言う事を聞かなかった。自分の頭の妙に冷静な部分でコレが吸血鬼の魅了というものなのか、なんて考えていて、しかしすぐに自己でツッコミが入った。  いやさそんな事を考えている場合ではないと。最悪本当に殺されるか、或いは赤毛に別の意味で喰われるに違いないと。  想像するに難くない、絶対に避けたい未来を思い、そこでジョシュアは漸く我に返った。危うく快楽に溺れるところだったが、魅了の魔力にジョシュアが慣れて、頭が動き出したからであろう。  こんなでも、伊達に長年ハンター生活をしてはいない。ポンコツだ何だと言われ罵られても、ジョシュアは一般人ではないのだ。  覚醒したジョシュアは途端、素早く魔力を身体に巡らせた。少しでも魅了の魔力の影響を薄め、抵抗するだけの気力を回復する為だ。  眠っていたミライア由来の力を無理矢理叩き起こし、震える身体の内一点、右脚に力を集中させる。力を無駄遣い出来ぬ状況下で、確実に逃れ、あわよくば赤毛を正気に戻す為。ジョシュアはここぞという好機を狙って。 「ぐうッ――!」  食事の最中だ。完全に油断し切っていたらしい赤毛は、攻撃をまともに腹に受け、呻き声を上げながらべしゃりとベッドの向こう側へと落ちていった。  それからすぐに身体を起こして体勢を整えたジョシュアは、戦闘時のような緊張感やら貧血やら、おまけに中途半端に焦らされた熱やらを持て余しつつ、枕元にあったナイフを右手に握った。  その手が震えていたのは、恐怖なのか武者震いなのか。ジョシュアにもよく解らなかった。血も足りぬ中で突然動いた反動か、頭がクラクラとしてまともに動かなかった。吐き出すその息が荒いのは、自分でも嫌と言うほど分かっていた。  左手で首筋に触れるとそこがぬめりとした。生暖かい己の血の感触だ。  計四本、開けられたその傷口は未だ塞がってはおらず、その血は次々と溢れ出てきた。それを少しだけ自分の口に含んだ後、ジョシュアは血を止めるように首の根本を圧迫した。吸血鬼なのであるし、そう易々と死にはしないだろうが。ジョシュアの気分の問題だった。  その手に、ドクドクとした己の血の巡りを感じた。荒い鼓動を反映するように、暴れるように脈打つ感覚は酷く生々しく感じられる。ジョシュア達を生かす生命の源。  しばらくの間、部屋は沈黙に包まれた。  動きがあったのはすぐだった。ベッドの向こう側、もぞもぞと動く気配がする。ジョシュアにとっては長い長い時間のようにも感じられたが、実際にはほんの数分程の出来事だったのかもしれない。それでも確かに、赤毛が動き出す気配がした。その音に無意識に、ジョシュアの身体が震えた。 「あ、れーー? 俺、何してたんだっけか……」  そんな静かな声と共に、のそりと赤毛が立ち上がるのが見えた。先程のジョシュアの蹴りは随分と効いたのか、赤毛は痛そうに腹を押さえていた。その顔は、随分と険しく歪んでいるようだった。  ふるふると顔を振ってから、赤毛が顔を持ち上げる。そこにはもう、先程までの冷たい眼差しは無い。けれども当のジョシュアはといえば、ぐにゃぐにゃと踊り始めてしまった視界にくらくらとしていた。赤毛の変化に気付く事も出来ず。険しい顔のまま、赤毛のその様子を窺っていたのだった。手元のナイフを固く握りしめながら。ジョシュアはその時を待っていた。
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