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17.赤毛の吸血鬼(後)
警戒するジョシュアの視線と、我に返った赤毛のまなざしが絡み合った。その瞬間、赤毛はハッと驚くように目を見開く。その時にようやく、何が起きたかを理解したのだろう。
赤毛はまるで、悲鳴のように声を上げた。
「うっそ、マジか俺ッ……、ごめんよ!」
聞いた事のない程の焦りを含んだ声と共に、ジョシュアのすぐ目の前に赤毛の気配が現れた。しかし、未だ状況を理解できなかったジョシュアは、まるで逃げるかのように仰け反り、その体を強張らせてしまう。
ジョシュアのそんなおかしな様子に、赤毛もすぐに気付いたことだろう。赤毛は唐突にジョシュアを腕の中へと抱き込んだのだった。素早く肩に腕を回し、ナイフを握ったジョシュアの手を上からそっと握り込む。
「もう大丈夫、ごめん。ごめんよ。もう、大丈夫だから。俺の、ミスだ……楽しくて浮かれて、調子に乗ってた」
まるで子供に対して、あるいは恋人に対してそうするかのように。赤毛はジョシュアの優しく声を掛けた。ポンポンと肩を優しくたたき、未だナイフを握り締めた手に指を絡めてするりと撫でる。
それでもなお、ジョシュアはしばらく震えが止まらなかった。
それでもジッとしながらそう、何度もそうされていると、徐々に落ち着きを取り戻していく。緊張しきっていた体から段々と力が抜け、その上半身が赤毛にもたれ掛かった。
手にしたナイフが、ぽろりとベッドの上に落ちていくのが、ジョシュアにも分かった。ゆっくりと、自分を落ち着けるように息を吸う。
そんなジョシュアに向かって、赤毛は静かに、そして少しだけ声のトーンを落として言った。普段の彼からは想像もできない声音だった。
「説明、ちゃんとしとくべきだった。前に少しだけ話したと思うけど、俺、吸血鬼の中でも大喰らいなんだよ。だから、普通よりも何倍も血が欲しくなる。でもそれは別に、必ずしも必要な血の量って訳ではないんだ。ただの俺の欲、ってだけの話。俺自身が他の奴等よりも強欲で、満足しないって事。だから、その満足感が不足し過ぎると、さっきみたいに我を忘れる事がある。姐さんに一時期狙われたのもそのせい」
まるで独白するかのような話しぶりだ。ジョシュアはそれを、己の体の不調とも相まって、ただジッと黙ったまま話を聞いた。
「さっきのアレは……今回のは、俺が食事を選り好みし過ぎたせいだよ。最近、君の血ばっかり口にしてたから……他の人間から血を貰うのをサボってたんだ。君ほど美味しく感じる血は無いから。……全くもって俺の怠慢。大分良くなったとは思ってたけど、ほんと、俺は相変わらずの強欲者だわ。せっかく任されたってのにさ」
そう言い終わると同時に、赤毛は大きく溜息を吐きながらぎゅうとジョシュアを抱き締めた。
ジョシュアは抗う事もなく、されるがままだった。すっかり緊張の糸が切れ、体中から力が抜ける。貧血でクラクラとしていた。凭れかかるように、その頭を赤毛に預ける。そのまま目を瞑っていると、赤毛がぐしゃぐしゃとその頭を掻き回した。ジョシュアは眉間に皺を寄せたが、文句を言う気力さえ湧かずにされるがままだ。
赤毛はジョシュアに耳元へ顔を寄せると、優しく声をかけた。
「“影の”、俺の血飲んどきな。今はあんまり量はあげらんないけど、少しは楽になるから」
赤毛は、己の手――親指の付け根に牙で傷を付けると、目を瞑り身体を預けたままのジョシュアの口許にそれを押し付ける。血の匂いを嗅ぎ取ったジョシュアは、目を瞑ったままその手に舌を這わせた。一瞬、その手がピクリ震えた気がしたが、ジョシュアはそれを気にする余裕もなかった。
傷口から僅かに流れ出るその血を舐め取り飲み込む。ほんの僅かな量でも口にすれば、ジョシュアの体は幾分か楽になった。そのまましばらく。その傷が完全に塞がってしまうまでの間、ジョシュアは赤毛の好意に甘えるのだった。
飲み終えてからしばらく。ジョシュアは体が回復するまでの間、ジッと赤毛に体を預けた。わずかな間でも、身体はいつもの調子を取り戻してくる。戦闘なんてものは到底できないに違いないが、日常生活を送る上では何の問題もなさそうだった。
赤毛から身体を離し、ゆっくりと自力で起こしていくのと同時に、ジョシュアの中では羞恥心がむくむくと湧き起こり始める。野郎の腕の中、すっかり気を抜いて介抱されるだなんて。そんな事を言っていられるような状況でなかったのは重々承知してはいる。けれど、ジョシュアにだってそれなりのプライドというものはあるのだ。小さいには違いなかったが。
ただ、先程の赤毛は確かに恐怖だったのは事実だった。自分では到底対処のできない、格上の存在。内心は大層複雑であった。
こんな気分では益々みっともない。ジョシュアは気分を切り替えるように、その場で大きく深呼吸をする。息を完全に吐き終えたところで。静かにそっと、赤毛に向かって言った。
「“赤毛の”、もう大丈夫だ」
「ん」
いつもより随分と聞き分けの好い赤毛から離れ、ベッドの上で向き合うように座る。赤毛に文句の一つくらい言ってやりたいような気分だったが、今回ばかりは勘弁してやることにした。
さすがに落ち込んでいるのか、目の前の赤毛はまるで、捨てられた犬のようにしょんぼりとした顔をしている。怒る気にもなれない。
ジョシュアはできる限りそっと、普段の調子で赤毛に言うのだった。
「もう、ああいうのは御免だからな」
「うん」
「食事の確保くらい、俺にも手伝えるんだから言ってくれ」
「……うん」
ガシガシと頭を掻きながらジョシュアが言えば、赤毛は子供のような仕草でコクン、と首を縦に振った。
それが体格に似合わず随分と可愛らしいものだったので、ジョシュアは衝動のままにグッと喉の奥を締めた。
デカくて騎士のような男に向かって可愛らしいだなんて、きっとそれは随分とおかしな感情であるに違いないのに。ジョシュアは再び、非常に複雑な思いを抱えるのだった。
そんな時だった。赤毛が唐突に、口を開いた。
「ねぇ、俺さ、“影の”に本名教えとくね」
一瞬、ジョシュアは何を言われたのか理解ができなかった。あまりにも唐突で、おまけに耳を疑うような話だったから。
魔族にとっての真名は鎖。そう、ミライアから教わったばかりだった。
「お前、何を……、真名は普通、秘匿するものだと――」
信じられないような気分でジョシュアが聞くと、赤毛は未だションボリとしたような調子で言った。まだ正気ではないんじゃないだろうか。ジョシュアは咄嗟に疑ってしまった。
「うん。……ホントはね、姐さん以外誰にも教えないつもりだったんだけど。また、姐さんが居ない時に俺が何かしちゃったら、ヤだから」
「ッ、だ、だがそんな大事なもの、俺なんかに教えてーー」
「アンタだから教えるの」
「!」
ジョシュアが思わずそう口走れば、赤毛は語気を強めてそう言った。怒ったような拗ねたような、普段とはまるで違う面持ちだ。
その顔があまりに真剣なものだったから。ジョシュアはひどく狼狽した。馬鹿を言うな、と茶化せるような雰囲気でもない。ジョシュアはすっかり何も言えなくなってしまった。
「アンタが、姐さんと同じく信用に値する奴だって思うから言うの。俺が駄目になった時、殺されるならアンタら師弟のどっちかがいい」
真っ直ぐに、らしくもない真剣な眼差しでそんな事を言われてしまって。ジョシュアはもう、拒否することなんて出来やしなかった。
他者に真名を預ける。それがどんな意味を持つのか。ソレが分からないほど、ジョシュアも愚鈍ではなかった。それがどんな重荷になるのか。ジョシュアには未だ、想像もつかない。
「分かった。覚えても多分、俺には畏れ多くて呼べないだろうがーー」
「今日みたいに二人きりの時は名前で呼んで。俺が呼んでって言ったら呼んで」
その名を呼ぶつもりはない。ジョシュアは暗に示したつもりだったのだが。その逃げ道は途端に赤毛に塞がれてしまう。彼の考えなど、赤毛にはお見通しのようだ。
ジョシュアにはそれが疑問で仕方なかった。何故、自分なのか。困惑するばかりだった。
「なぜ俺に……」
「俺がそうしたいから」
「でも――」
「俺がイイって言ってんの」
尚も拒否しようとするジョシュアに、赤毛は一歩も引かなかった。最早溜息しか出ない。いつだって、この赤毛に対して折れるのはジョシュアの方だった。
まさかそれが、こんな真剣な場面においても変わることがないとは。理解できなかった。
「お前がそこまで言うのなら……仕方ない」
「そ。最初っから素直に受け入れてよ。俺の事見くびりすぎ」
「アンタはそりゃ、大丈夫かもしれないが……俺が、駄目かもしれないだろ」
ジョシュアは不安なのだ。そんな大事な事を、自分のような弱い男に預けても本当に良いのか。敵に蹂躙され、簡単にバラしてしまうとは思わないのか。それが疑問で仕方なかった。
「姐さんとはまだしばらく一緒に居るでしょ? そんなら姐さんに敵う奴なんて居る訳もないし。それに、“影の”が一人立ちする時にはもう、アンタに敵う奴なんてまず居なくなる時だよ」
「…………そう、か」
「そ。姐さんに捕まってる時点で、アンタは最初から普通じゃなかったんだよ。“化け物”だ。だから、最初っからアンタは何も考えずに『うん』て言えばいいの」
納得なんて、今のジョシュアには到底できない。赤毛の甘い言葉ですら、疑わしいと思ってしまう。ジョシュアは内心では訝りながら、しかし、押し切られるように受け入れてしまうのだった。
いつもと同じ。弱いジョシュアにはどうしようもないことだった。
赤毛はふと言葉を切った。シィンと静まり返った部屋で、二人の静かな呼吸音だけが聞こえる。
そんな中で唐突に、赤毛はジョシュアへと近づいた。ベッドに擦れる衣の音が、微かに耳に入る。静か過ぎるあまり、ジョシュアは随分と敏感になっているようだった。
顔をジョシュアの耳元にまで近付けた赤毛は。たったふたりきりで部屋に居るのにも関わらず。まるで内緒話のように、睦言のように、小さな声で囁くのだった。
「俺の名前ね、『イライアス』だよ。ちゃんと、呼んでね?」
きっと、それはわざとだったに違いない。妙な色気を含んだ低めの声でそう言われて、ジョシュアは途端、首筋に鳥肌が立つのを感じた。
咄嗟に耳を手で覆い、身体を引いてほんの少しだけ距離を取る。
何故だか途端に恥ずかしくなって、ジョシュアは睨み付けるように“赤毛の”ーー基いイライアスを見上げた。
そこにはいつものような、してやったりの男の笑顔があって。それを目にした途端、ジョシュアは脱力感に襲われるのだった。
普段と何も変わらない、男の表情だ。それにホッとするのと同時に、ジョシュアは何故だか悔しくなってしまった。
ずっとずっとあの時から、ジョシュアは逃げ続けるような人生を送ってきた。優秀な彼等を恐れ、他者の評価を恐れ、自分に向けられる感情を恐れ。ひとりでいる事を選んできた。
努力をしなかったわけではない。けれど、努力ではどうしようもないことなんて、この世にはいくらでも転がっていて。それでも頑固な己は次に進む事もできずにただ、進む事から恐れて逃げていたのだ。
そんな恐れるばかりで進めなかったこの自分を、目の前の男は懐の中に入れようと言う。
それがどうしようもなく、我慢ならないほど、悔しくなってしまったのだ。こんな不出来な自分に命を預けるだなんて。ジョシュアは堪らなかった。
だからこそジョシュアは、思い切って進んでしまうことにしたのだ。そちらがその気ならば一連托生。
そんな関係も悪くはない。
信頼されている事が妙に照れ臭くて、そしてフェアでない事に、ジョシュアは妙な苛立ちを覚えてしまったのだ――。
「『ジョシュア』だ」
「え」
「『ジョシュア』。アンタが教えたのに、俺が教えない理由はない。彼女に聞いているかは知らないが、元々はキールという街で数年ハンターをしていた。彼女と出会ってしまったのは、偶然の成り行きだ。彼女に喰われそうだった女性を、助けようとしてしまった。今覚えば何の問題も無かったのだろうが……運良く彼女に気付かれずに近付けてしまって、彼女から女性を逃がしてしまった。それで、何故だかこんな事になった」
赤毛に自分の事を話したのは初めてだった。ミライアと居る時ですら、こんなに饒舌に話した事はないかもしれない。
生まれは北の方、街の名前すら覚えていない程の頃に両親を亡くし、田舎の教会に預けられた。貧しい暮らしの中でも未来を夢見て、血の繋がらない兄妹と共に化け物退治専門のハンターになった。
そうして数年、旅をして仲間と離れ、流れ流れてミライアと出会う事になった。
それが、掻い摘んだジョシュアの人生だった。何の面白味もない、その辺に埋もれてしまうようなものだ。
けれど勢いのまま、ジョシュアは話し続けた。自分の満足のいくままに。赤毛のイライアスから向けられたその誠意を返すように。ほとんど無意識だった。
「――彼女も、何を好き好んで俺なんかを引き入れたのかは知らない。……長年、ハンターとしても大した仕事はしてこなかったが、こうやって連れ回されている事、案外悪くはないと思ってる。アンタにもこうして戦い方を……」
ジョシュアがイライアスの反応を見ようと顔を上げたところだった。ジョシュアは思わず、言葉を止めた。
目の前のイライアスは何故だか、その口をポカンと開けたまま、ジョシュアをただ凝視していたのだった。
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