8人が本棚に入れています
本棚に追加
雨の夜はいい。
雨音が声を消してくれるから、発声や滑舌の練習をやるのにピッタリだ。
声優の御堂刹那は、遊歩道の脇に作られた休憩スペースに今日も来た。
この三日間、夜になると雨が降っている。彼女にとっては絶好の練習コンディションだ。
この辺りは田畑ばかりで、雨が降っていようがいまいが発声練習をしていても、誰かに聞かれる可能性は少ない。
が、夜に散歩をしている人もたまにいるし、遊歩道に沿って流れる新川には夜釣りを楽しむ人もいる。
発声を他人に聞かれないようにするには、雨は最高の味方なのだ。
「かけきくけこかこ、さしすせそさそ……」
傘をさしながら腹筋に力を入れ、声を張り上げる。
その声は、闇と雨の中に吸い込まれていく。
刹那は発声の基礎を繰り返す。
練習を始めて十五分ほどが過ぎただろうか、刹那は背中に視線を感じて振り返った。
ベンチに男の子が膝を抱えて座っている。雨の夜、傘もささずに。
「こんばんは」
男の子は答えない。年は十歳にはならないだろう、古いデザインのTシャツと半ズボンを身に着けている。彼は刹那がここで発声練習を始めた、一昨日から姿を現していた。
刹那はこの手のことには慣れている。物心が付く前からこの世ならざるモノの姿が見え、所属事務所では拝み屋のまねごとまでさせられているのだ。
彼女は男の子がいても特に気にせず、そのまま練習を続けてきた。
「じゃあ、そこで見ててね」
滑舌の練習を再開する。
「かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ……」
さらに二十分くらい練習していただろうか、気が付くと声が通るようになっている。
いつの間にか、雨が上がっていた。
傘を閉じて、暗闇の空を見上げる。雲の切れ目から、月明かりが差し込む。
「雨、やんだね」
振り返ると、男の子も月を見上げていた。
〈パパもママも……こない……〉
初めて男の子が口を利いた。
「ずっと待ってたんだね」
刹那は男の子の前でしゃがんだ。
男の子の視線が月から刹那へと移動する。
〈もう……こないの……?〉
「うん……そうだね……とっても長い時間が過ぎたんだよ。きみは、ずっと待っていたんだ、パパとママをね」
男の子はコクンとうなずいた。
「さみしかったよね、辛かったよね、悲しかったよね、誰も迎えに来てくれなくて。
でも、もう待たなくていいの」
言われた言葉の意味が解らなかったのだろう、男の子の顔に戸惑いが浮かんだ。
「きみには行けるところが……行くべき場所があるんだ」
刹那は男の子の瞳を見つめた。事実を告げるのは辛い、こんな小さな子に己の死を突きつけるのは。
〈どこにいくの……?〉
彼が脅えているのが判る。きっと察しているのだろう。
「正しい名前はおねえちゃんにも判らない。でも、そこはね、この世からいなくなった人たちが行く場所なんだ」
〈ぼく……しんじゃったってこと……〉
刹那はゆっくり、しかしハッキリと首を縦に振った。涙が頬を伝う。
「ごめんね、おねえちゃん、何もしてあげられなくて……」
男の子がじっと刹那の顔を見つめる。
混乱しているのか、不安なのか、嘆いているのか、それとも怒っているのか、彼女には判らない。
〈ううん……いっしょにいてくれて……ありがとう……〉
「え?」
男の子の姿がぼやけ始める。
〈ずっと……ひとりぼっちだった……だから……おねえちゃんがきてくれて……うれしかった……〉
「あたしがいたのは、少しの時間だけだよ」
〈それでも……うれしかったよ……〉
最後に男の子は微笑んだ。
刹那は雨に濡れた、誰もいないベンチを見つめた。雨水が冷たい月明かりを反射している。
名前も知らない、この場所にいた原因も判らない男の子。それでも刹那は彼の冥福を祈った。
「姉さーん」
聞き慣れた声に顔を上げると、懐中電灯を手に、愛犬に引かれながら駆けてくる妹の姿が見えた。
「永遠、どうしたの?」
「どうしたも何も、帰りが遅いから迎えに来たんだよ」
「あれ? 今、何時?」
スマホをポケットから取り出すと、日付が替わっていた。
「ちょっとッ、中学生がこんな時間に出歩いて!」
「来月から高校生だよ! ってか、 姉さんが帰ってこないからでしょッ」
「あ、そうか……ごめん……」
思わず姉面をして妹を叱ったものの、自分が頭を下げることになった。
「発声と滑舌の練習はこれぐらいにして、今日は帰りますか」
刹那は永遠から懐中電灯を受け取ると、空いた手を繋いで休憩スペースを後にする。
雲は流れ、夜空には月だけではなく星も瞬いていた。
-fin-
最初のコメントを投稿しよう!