出会い

1/1
前へ
/10ページ
次へ

出会い

『いいコにしていればまた会えるからな』  そうだ。あの時、俺はそう言った。それが俺とリアンとの最後のやりとりだ。  あれは俺が小学1年の下校中の時だ。  その日はまだ昼間なのに重い雲が立ち込め、暗い雨の日だった。ランドセルがいつもよりも重く感じられた。生臭い風が吹き、俺は傘が飛ばされないように必死だった。  目の端に黄土色の何かが見えた。遠目には雨に濡れてぐしゃぐしゃになったダンボールかと思った。近づいてよく見ると子犬だった。  犬は噛む生き物と教えられていたが、目の前の子犬は弱々しい目をしていて、そんな元気はなさそうだった。そして雨に濡れて震えていた。子供の俺でも、このままでは長くは生きられない事がわかった。  その時の俺は何も考えていなかった。体が自然に動いた。子犬を抱き上げ、家に連れて帰った。子犬は嫌がる素振りは見せず、大人しく抱かれていた。  玄関を開けた時、俺はようやく頭が動きだした。  コイツ、どうしよう?  家で飼える?  飼ってくれる誰かを探す?  誰かの飼い犬じゃないのか?  お母さんとお父さんはどこ?  コイツ、ひとりぼっちなのか?  俺が玄関から動けずにいると、リビングから 母の声がした。「啓くん、帰ったの?帰ってたら、なんて言うの?挨拶、大事よ?」 「た、ただいま!」と俺は答えた。そして胸の中の子犬も大きな声で挨拶をした。 「わんっ!」 「わん?」と母は言い、どたどたと足音を響かせ玄関にやって来た。俺には子犬を隠す時間は無かった。  母も事態を飲み込むのに時間が掛かったのだろう。俺と母は1分程、無言で見つめ合った。俺の生涯で1番長い1分間だ。 「どうしたいの?その犬」と母は言った。普段通りを心掛けた口調だった。今だから分かるが、母だってどうしたらいいのか、分からなかったに違いない。  俺が何か言う前に子犬が口を開いた。 「わん!わん!」 「ダメだよ。静かにしなきゃ!」と反射的に俺は言った。 「飼いたいの?その犬」と母は言った。声は普段通り。口元は普段通り。でも、目が据わっていた。  俺は何も考えずに子犬をここに連れて来てしまった。飼いたいのかどうかよく分からない。雨の中で震える子犬を見ていられなかっただけだ。 「分かんない。けど……」と俺は言い、それ以上、何を言えば良いのか分からず、口ごもった。でも、子犬を雨の道端に戻すのだけは絶対にいやだった。 「この犬、ひとりぼっちだったから」 「周りに誰も居なかったの?飼い主とか」 「居なかったと思う」  沈黙が続いた。雰囲気を察したのか腕の中の子犬も黙っていた。 「啓一くん、動物を飼うのは大変なのよ?命を預かるのは責任があるのよ?分かってる?」と母は言い、腕組みをした。普段は『啓くん』と呼ぶのに今は何故か『啓一くん』ときた。声色こそいつもどおりだが、雰囲気はただならぬものが伝わって来た。 「ウチはね。そんな余裕は無いのよ。分かってる?」 「俺、ちゃんと面倒みるよ」と小さく言った。他の言葉は思い浮かばなかった。 「啓一くんが学校に行ってる時はどうするの?」と母は言い、子犬を強い視線で見た。反射的に子犬を抱く腕に力が入った。  飼ってくれる人を探すよ、と俺が言おうとした時、母が口を開いた。 「啓一くん、宿題、忘れない?勉強はやる?落とし物はしない?友達と仲良くできる?」と母は視線を子犬から俺に向けて言った。「良い子になれる?」  母は噛んで含めるようにゆっくりと話した。視線は強いままだったが、思いもよらない会話の流れで気分が高揚した。  俺はすぐに「うんっ!」と答えた。腕の中の子犬も「わんっ!」と鳴いた。 「聞いたわよ。良い子になれるなら、その子、飼っても良いわ」と母は視線を和らげた。「じゃあ、まずはお風呂行ってきなさい。びしょ濡れじゃない?」  
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加