帰り道は空き家となった家の前を通る

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四月に就職してから私には一つ問題が出来た。 職場から自宅に帰る道筋に、かっての自宅が入ってしまったことである。 それがどうしたと思われるかもしれないが、中学生時代の数か月だけ住んだ家で、かつ、そこで心霊体験とも言える体験をしたのであれば、そんな記憶と一緒にそんな幽霊屋敷など忘れ去りたいものだろう。 あそこでの体験は、私の勘違いでは無かったとはっきり言える。 思春期には霊感が強くなるとも言われているが、私があの家で体験したあれは、そんなものでは無かったはずなのである。 ある夜、私はびくっと震えるように目が覚めた。 それは誰かの気配だった。 私の布団の周りを誰かが動いている、そんな気配だった。 荒い息を吐きのそのそ動く影は大きな犬か何か。 私はそんな気がした。 真っ暗で何も見えない部屋の中、自分以外の気配を感じたならば脅えるべきだ。 けれどもその存在が犬だと思った途端、なんだか怖いという気持ちよりも、可哀想だな、そんな気持ちが湧き出てしまったのである。 借家には犬は連れ込めない。 そこで実家の建て直しが終わるまでは、我が家の愛犬は父方の祖父母宅に預けられている。別れる時の愛犬の悲しそうな顔、それを私は思い出したのだ。 だから、布団の周りをのそのそと動く気配に対し、私は飼い主を求めて出てきた犬の幽霊だと思い、可哀想だと感じるばかりだったのである。 「もうだいじょうぶだよ」 私は飼い犬にするようにして、それを撫でようと手を伸ばしていた。 しかし、私の手に触れたのは、犬の毛皮の感触ではなかった。 間違いようもなく、ベタっとした人毛の感触。 指先が触れた瞬間、それから匂いも弾けた。 父親が頭につけるオイルの匂いだった。 そして私の感覚が正しいという風に、それは私に向けて顔を向けた。 暗闇の中で白い顔だけははっきりわかった。 私の手のひらが触れているのは、中年の男性の頭部であった。 痩せぎすで頬がこけているのに、目元が出目金のように腫れている。 そんな顔をした男が、くしゃっと顔を歪めて笑顔を作った。 私はあの時に叫んだのかも覚えていない。 気が付けば朝だった。 家族には夢でしかないと言われて信じて貰えなかったし、私も日が経つにつれて夢だと思う様にはなったが、私は今でもあれは現実だったと思っている。 ラップ音は日常茶飯事。 急な階段を上り下りする時に、なぜか誰かとすれ違った感触を受ける。 そう。 家族以外の誰か、絶対に幽霊があの家にいたに違いないのだ。 「美咲、気にしすぎると呼ぶって言うよ」 私ははっとしてもの思いから覚めた。 車の助手席には仲良くなった同僚陽菜が座っている。 一週間前に彼女がバス通勤と知ってから、彼女に送迎を持ちかけて仲良くなったのである。 行きはあの家とは対向車線となるので問題はなく、問題は朝の支度が遅い陽菜によって出社がギリギリになりかけるところだ。 しかし、陽菜を車の助手席に座らせる私の狙いは、帰宅時こそである。 あの家、全ての窓が雨戸で封じられているあの空き家のすぐ横を、私は真っ暗な夜道の中通り過ぎなければいけない。 その恐怖を一人で耐えることに、私はもはや我慢できないのである。 「ちゃんと運転してる?というか、その自動操縦こそ怖いよ」 「ごめん。意識を宇宙船に乗せないと怖くて」 「それであたしというワンクッションを助手席に置く事にしたとは。知ってる?怖がり過ぎると呼ぶって言うよ」 「やめて! 悪いと思ってるよ。だけどさ、毎朝起きられないあなたの為に私も遅刻寸前なんだからさ、そこで貸し借り無しというか」 「いやいや。あたしを無遅刻にしてくれた功労者だと、あんたは上司のお気に入りになったんじゃありませんか。お主は実はそっち狙いだろ?」 私は陽菜と一緒で嬉しいと思いながら笑い声をあげた。 もうすぐあの家だが、あの家の傍でこんなに気持ちが軽くなったのは、実は初めてだったと気が付いた。 今日は十八時を過ぎていてもまだ明るい。 ついでに梅雨明けしたばかりという時期が、私と陽菜の気持を軽やかにしていたこともあるかもしれない。 来週は飲み会だ。 上司と言っても教育係の三つ年上の先輩、この田舎ではなかなかな外見の成田翔太さんを囲んでの飲み会なのだ。 今から楽しい気持ちになるのは仕方がないはず。 「あ、雨戸空いてるじゃない。空き家じゃ無くなった?」 「え?」 私は陽菜の言葉に視線を動かしていた。 いつもは絶対に見ないようにしているあの家であったが、だが、怖々と見て見れば、陽菜の言葉通りに一階の居間だけ雨戸が開いていた。 それから、ちらっと見えた居間の風景は、過去の私が覚えている内装では無かった。 床はフローリングになっていて、そこにはソファとあの頃には売ってもいない大きな薄型テレビである。 大きなソファはテレビの前に置かれているのだが、そこで小さな子供が跳ねている。 赤とピンクとフリルで出来ているワンピース、恐らく姉が好きなあの子供服ブランドを着た子が、お行儀悪くぴょんぴょんと跳ねているのだ。 「思いっ切り洋風になっている」 「だねえ。これで明日っから怖くないねってか、あ! ねえ! これであたしの送迎も終わり?」 「いやいや。おかげで怖くなくなったんだし。成田さんのお気に入りでいたい私としては、陽菜さんを大事に送迎させていただきますわ」 「ハハハ、さいてい」 私達はその後は楽しい気持ちのまま別れ、私は自宅のガレージに車を入れる時も、玄関で靴を脱ぐときも鼻歌を歌っているぐらいだった。 「美咲ちゃん、たのしいの?」 玄関に姪がいた。 彼女は赤いチェック地にピンクのフリルエプロンを重ねた様なワンピース、私がどこかで見た事あるようなものを着ている。 「優愛ちゃん、今日来てたの?」 「うん。パパがちょうきいないいないだから、ママがはねのばすって」 「パパはどこに行ったのかな?」 三歳の姪はクシャッと顔を皺だらけにした。 その皺のある表情は私が忘れたい誰かを思い出させた。 「ママに聞こう、ね、ママ~って、さあ行こう、優愛ちゃん」 優愛はぱっといつものつるんとした幼児顔に表情を戻すと、私が言った事を達成するためにか廊下を駆けて行った。 私は幼い姪を追いかけ、姉と母がいるはずの居間に入った。 ちょうど姪はソファに座る姉から自分の父親の出張先を聞いたばかりのようで、私に自慢そうに胸を張って見せた。 「美咲ちゃ~ん!!パーパはカンガルーに会いに行ったんだって」 「なんじゃ、それは」 「なんか宮城県に野生のカンガルーがいるらしいわよ。優愛に会えない寂しさをカンガルー探しして癒すとか馬鹿なメールを今送ってきたの」 「仕事終わらせてさっさと帰って来いって返せば?」 「ぱぱ!カンガルーとぴょんぴょん」 優愛がソファーに飛び乗って、そこでぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。 私は姪の行動に頬が緩んだが、瞬時に顔が歪んで固まった。 外は暗闇。 居間の掃き出し窓は鏡の効果となっていて、そこにはソファを飛び跳ねる優愛がいる居間の様子を映し出しているのである。 後ろ向きの子供が跳ねる姿がそこにあった。 ピンポーン。 ピンポーン。 「美咲、出てくれる?」 キッチンの奥から母が声を上げたが、私は動けなくなっていた。 自宅の窓に映る光景が、車から見たあの家の居間の様子と同じなのだ。 ピンポーン。 ピンポーン。 「もう、私がでるよ」 姉がソファから立ち上がり、戸口の私をすり抜けて玄関へと向かっていく。 優愛もソファから飛び降り母親を追いかけて来たが、彼女は私の前でぴたりと止まった。 そして、私のスカートの裾をくいっと引っ張った。 私を見上げる姪は、顔をくしゃっと歪ませて、笑みのような表情を作った。 「怖がり過ぎると呼ぶんだよ」 姪が出した声じゃない声は、私の後ろから聞こえた。
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