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『課長っ……! 貴彦さんっ!!』  靴を脱ぎ散らかし、寝室まで駆け抜けた。ドアを開ける。こもっていた強烈な異臭――血の臭いに噎せ返る。 『貴彦さんっ、貴彦さん……!』  ベッドの上に投げ出された左手が赤に塗れている。シーツに染み出た血液量で、もう蘇生が叶わないことは素人目にも明らかだった。自信に満ちた男前の容貌はそこになく……カッと見開いた眼球が上を向き、大きく歪んだ唇から赤く泡立った液体が溢れ、表情筋の全てが苦悶のまま固まっていた。  攫われた――。  火遊び程度の存在でしかなかった柄本が、僕から永遠に貴彦さんを奪っていった。この人は、誰のモノにもならないはずだったのに。 『……許さない』  気が付くと、裸の胸に突き立てられた包丁の柄をハンカチで拭っていた。そして血を含んだシーツを踏まないよう、慎重に課長に跨がると、両手で包丁の柄を握り、体重を込めた。グズッ、と1cmほど刃先が肉塊に沈んだ。その異様な感触に僕は飛び退き、ベッド脇に転がり落ちた。 『アイツ、じゃないっ……貴彦さんは、アイツのモノじゃない……アイツになんか、渡すもんかっ……』  身体は興奮して熱く、心臓は痛いくらいに大きく脈打つのに、頭の芯だけが奇妙なほど醒めていく。ベッドサイドのスマホを手に取った。遺体の指に押し当てて、指紋認証のロックを解除すると、メッセージアプリに残る柄本とのやり取りを削除した。それから、画像、動画と次々にした。  天気予報通り、マンションの外は激しい雨だった。勢いよくアスファルトを叩く水滴は踝より高く跳ね返り、路上が白く泡立っている。エントランスを出た僕は、身の内に燻る興奮を噛みしめながら、ゆっくり歩く。  貴彦さんが消えてしまった世界を生きていくのは堪らなく寂しい。けれども、ことで、僕と彼は最も近い場所で1番深く繫がることが出来た。僕が殺人犯である限り、この絆は切れない。柄本は馬鹿だ。こんな素晴らしい権利を、みすみす僕に奪われるなんて! 叫びだしたいほどの愉悦に満ち足りて――僕は、傘を差すことも忘れ、ずぶ濡れで帰宅した。
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