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最低の男
『ゴミ箱を空にしますか』
『はい』
指先が触れると、フォルダから選択した100枚近い画像が一瞬で端末から消えた。ジワリと項の辺りに汗の気配。少し蒸し暑いのは――この部屋で数時間前に行われていた艶事の余熱か、それとも。
「……やっぱり、雨になったなぁ」
スマホを手にしたまま、カーテンの隙間から外を覗く。間接照明の淡い光を背にした僕自身の姿が、涙まみれの窓ガラスの中にぼんやりと浮かぶ。タン、タン……と大粒の水滴に叩きつけられ、泣き顔は刻々と表情を変えている。天気予報は「夜半から降水確率70%」と言っていた。だけど、傘を持ってくる余裕なんてなかったんだ。
カーテンを閉じて、サイドテーブルに放り出されたリモコンを掴む。エアコンの送風口が傾いて、室内にこもる湿度と共に生臭い情欲の残り香と気怠さを吸い出していく。
「……ふぅ」
寝乱れたシーツの陰を視界の端に縫い止めて、ベッドの縁に腰掛ける。すぐ側に天井に向かって開いた掌が転がっている。男らしく骨張った長い指。薬指の付け根のプラチナリングが“この男は人のモノだ”と主張している。
「僕なら、外してもらうのに」
触れた指先は微かに生温く、まだ柔らかい。両手でリングを抜き取ると、サイドテーブルに放置した。
「動画も消さなきゃ」
ベッドの上の人差し指をスマホの画面に押し当てて、ロックを解除する。タイトルに人名の付いたフォルダがズラリと並ぶ。
1番上には――“陽菜美”。一瞬、指が止まる。確か、今年小学生になった娘の名前だったはず。ドロリと胸の奥が醜く溶ける。
続いて――“玲司”、“涼太”、“佑弥”、“晃嗣”。全て過去に関係した相手だろう。彼は、行為の最中や直後の痴態を動画に撮るのを趣味にしていた。これらは大切なコレクションなのだ。……吐き気がする。僕はフォルダの中身を確認することなく、次々に削除した。
“柊真”、“大雅”。
人名のフォルダは、残り2つ。僕の名前と、アイツの名前。
「……許さない」
憎しみを込めて、“大雅”のフォルダを削除する。こうやってデータみたいに、彼の中から存在を消すことが出来れば良かったのに。
躊躇ったけれど、“柊真”のフォルダを開いた。50近い動画が保存されている。きっとスマホの中身は調べられるだろうから……最初のヤツは、見られたくない。
『やめて……課長、いやだぁ……!』
『俺が好きなんだろう、小阪部? そういう目で、いつも俺のことを見ていたじゃないか』
『やっ……違っ……ああっ!』
初めては、同意じゃなかった。飲み会で酔い潰れて――後になって、課長が仕組んだことだと分かったのだけれど――介抱の名目でホテルに連れ込まれた。そして、まともに抵抗出来なくなっていた身体を襲われた。入社以来、仕事の出来る格好いい上司として憧れ、好意を持っていた。その気持ちを見透かされて、密かに狙われ、呆気なく奪われた。
『……良かったよ。これからも俺を癒してくれるね?』
この動画は楔だった。最初は脅し。動画を消してくれるという約束で、もう一度抱かれた。けれども約束は果たされず、暴かれた身体は慣らされ、拒絶しきれない気持ちを利用された。
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