最低の男

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『俺の実家は小さな町工場でね、妻は取引先の大企業の部長の娘で、結婚は断れなかった。異動を申請し続けて、ようやく単身赴任が叶ったんだ。今は自由に息が出来るけれど……ずっと苦しくて、辛かった』  何度目かの情事のあと、並べた枕の横顔が寂しげに打ち明けてきた。 『俺を慕ってくれていた柊真の存在だけが癒しだった。俺が本当に愛しているのは、君だけだよ』  巧妙な嘘と甘い言葉に、僕の心は絆された。突き放すことの出来ないまま、求められれば素直に応じてしまう程度には情が生まれてしまった。そうして、誰にも言えない不実な関係が2年になろうかという、3月の終わりのこと――。 『小阪部先輩。東海林(しょうじ)課長に付き纏わないでくれませんか』  他部署から半年前に異動してきた2歳下の柄本(つかもと)大雅が、僕を資料室に呼び出した。 『なんの話?』 『俺、課長と――貴彦(たかひこ)さんと付き合ってるんで』  切れ長の瞳が自信たっぷりに僕を見下ろす。健康的に日焼けした肌は男らしさを強調し、威圧的に張った胸板は厚く、その前で組まれた腕も逞しい。 『――はぁ?』 『アンタ、ただのセフレなんだろ。彼も、別れたいけど関係がバラされたら厄介だからって、困っているんだよ』  そういえば、2、3ヶ月前から時々、東海林課長の部屋に呼ばれない週末があったことに思い当たる。僕は溜め息を吐いた。随分タイプの違う子に粉をかけたものだ。 『君とじゃ話にならない。課長を交えて話そう。本当のことが聞きたい』 『だからっ! そういうのが、ホント、迷惑なんだって分かんねぇのかよ!』  柄本は苛立ちも顕わに僕を睨みつけると、声を荒らげた。 『消えろよっ。あの人は、俺だけのモンだ!』  これで、東海林課長との関係が終わるだろうか。情熱的な独占欲がギラつく柄本の眼差しを見上げながら、僕は淡い期待を抱いた。  東海林課長は、妻との結婚生活を拒否しているクセに、離婚する意思は全くない。仮に本気になったところで、彼が手に入らないことは分かっている。所詮、僕は単身赴任期間限定の仮初めの恋人だ。身体を溶かす快楽と幾ばくかの情愛で繫がっているに過ぎない。課長が新しい相手を見つけたのなら、いつでも別れられる自信があった。 『大雅とは、ちょっとした火遊びだよ。柊真が心配するような関係じゃない。まぁ、アイツも若いから……少し思い込みの激しいところがあるみたいだけれど、俺がよく言い聞かせておくから。……な?』  けれども、東海林課長は、僕を手放すつもりはなかった。それどころか、なにをどう言いくるめたのか、柄本のことも確りキープしていた。彼は、そういう男だった。 「馬鹿だよ……アンタ。手を出すなら、ちゃんと相手を見極めろよなぁ」  執着質の暴走型。柄本は、東海林課長の心も身体も独占出来ると信じたのだろう。いや、課長にそう思わせる言動があったに違いないのだ。この人は、いつでも自分本位で、誰のモノにもならない狩人なのに。  要らないデータを片付けたスマホに、充電コードの端子を挿してリングの横に置く。 「さよなら……貴彦さん」  資料室で柄本と対峙した、あの日から約3ヶ月。  既に土気色に変わりつつある課長の額に口づける。硬く冷たい感触が唇に残る。エアコンも間接照明も点けたまま、僕は寝室の外に出た。
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