夏、影の色濃し

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 校門へと向かいながら、何気ないふりを装って柊斗は隣の巨体を見上げた。緊張で震える指先で、ぎゅっとトートバッグの持ち手を握りしめる。 「なんだ、柊斗?」  見下ろしてくるアルハヴトンの顔を、白い街灯が照らし出していた。艶やかで黒みがかった肌と、彫りの深い意志の強そうな顔立ちが強調される。綺麗だ、と思いながら柊斗はゆっくりと息を吸った。 「アルには……『運命』は、いるの?」  声に緊張が出てしまわないように、これはほんの世間話なんだという風に続ける。アルハヴトンの目の奥で、何かが揺れた気がした。だがそれが何なのかを読み取る前に、さっと視線を逸らされる。 「……いるとも」  再び柊斗の方を見たアルハヴトンは、これまでに見たことのない、柔らかな笑みを浮かべていた。普段のまっすぐ前を見据えている表情とは違う、甘く包み込むような笑みに、本当にその相手のことが何よりも大切で、誰よりも愛しく思っているのだろう、と柊斗は直感した。  ぎゅう、と、胸が引き絞られたかのように痛んだ。 「そ、っか……それは、羨ましいな」  下を向きながら、早足で校門に向かう。 「……っ、それじゃ!」  校門を一歩出た瞬間、俯いたまま別れの言葉を叫んで柊斗は駆けだした。柊斗、と困惑したアルハヴトンの声が背後から聞こえてくる。自分でもおかしなことをしている自覚はあったが振り向かない。振り向けない。  頬を伝う涙を、見られたくなかったから。  下だけを向いて、ただ走る。 (アルハヴトンのことが、好きだ)  自宅のアパートに戻り、風呂に浸かりながらひとしきり泣いた柊斗は、自分の気持ちをそう結論付けた。そして、その途端これまでのことが柊斗の中ですとんと整理されてあるべきところに落ち着いた気がした。  気づいてしまえば、簡単な話だった。  一緒にいるだけで幸せな気持ちになってお世辞のような誉め言葉でも心が弾むのも、指先が触れるたびにドキドキして、鋭いけれども意外につぶらでかわいらしい瞳の先を常に追ってしまうのも。  いつもアルハヴトンと一緒にいるマナギナのことを、どこか疎ましいと思うのも。  そして——そして、今、人間には存在しない『運命』がアルハヴトンにいると聞いて、こんなにもやるせない気持ちになるのも。 (好きだからだ……)  精悍だけれども笑うと人懐っこい猫のようになる表情も、感情が昂った時に無意識に動いている耳と尻尾も、百獣の王に相応しい体躯も、優しい声も、はっきりと未来を見ているような青い瞳も。  全部、好きだ。  気づくのに時間がかかったのは、同性にそんな感情を抱くとは思っていなかったからだろう。今まで自分の性的志向について考えたことは特になかったが、なんとなく自分は男だから女と付き合うのだろうと思っている節はあった。  柊斗にとっては、そもそもこんなに自分の感情に振り回される経験も初めてだった。彼女に振られた時にも憤りや悲しみはあったが、だからといって人前で涙を抑えられないほどショックを受けることはなかった。  温かい風呂の中にいても、柊斗の胸の中には氷の塊が詰まったように冷たく、キリキリと痛んだ。少女漫画などで描かれている「胸が痛い」というのは比喩ではなく、本当に痛みを伴うものなのだなと体感しながら、目を閉じてゆっくりと息を吸う。 (まあ、今更気づいても遅いけど……)  同性に対して心を動かしていることに困惑がないと言えば嘘になったが、それよりも今までわだかまっていた気持ちが一言で説明できることに納得している自分がいた。とはいえ、とにかくアルハヴトンには運命がすでにいるのだから、柊斗と結ばれることはない。そう考えると、すでに出尽くしたと思った涙がまた零れてくる。  お湯がすっかり水になった頃、柊斗はようやく決心して風呂から上がった。 (……付き合うことはないとしても、好きでいるのは自由だよな)  この気持ちをなかったことにするのは、少なくとも今すぐに柊斗にできることではなかった。かといって、すでに相手がいるアルハヴトンに自分の気持ちを伝えることもしたくない。そんなことをしたら現在の二人の関係が壊れるだけでなく、彼を困らせてしまうことは明白だからだ。いきなり距離を置くのも不自然すぎるし、当然のように柊斗の隣に座るアルハヴトンに、理由もなくあっちに行ってくれと言うこともできない。  となると、選べるのは「この感情を抱えつつ、アルハヴトンと今までと同じように接する」しかなかった。  この想いは自分の中にだけしまっておいて、時々取り出してこっそりと眺めるようにすればいい。今はまだ尖っている部分が胸を刺すけれども、いつか丸くなって自分のうちに飲みこめるようになったら、その時に思い出の棚に並べればいいのだ。 「……頑張れ、俺」  洗面所の鏡に映る柊斗の顔は、散々泣いたせいで目どころか顔中が腫れている。だが、その表情は晴れやかで、よし、と柊斗は自分に向かって気合を入れた。  リビングに戻ると、真っ暗のままの部屋の窓の外に星空が広がっていた。見える星の数はさほど多くはないが、それでもちかちかと遠慮がちにまたたく輝きはいじらしい。ベランダに出ると、その下に柊斗の部屋と同じようなアパートが並んでいるのが見えてくる。あの明かり一つ一つの下に誰かがいるのだと考えると、いつも見ているこの景色全体がひどく愛おしくて、かけがえのない特別なもののように思えてくるから不思議だ。  頬を撫でるぬるい風も、寝ぼけて鳴くセミも、遠くから聞こえてくる電車の音も、すべてが新鮮で、そして、煌めいている。 (恋をするとは、こういうことか)  胸いっぱいに吸い込んだ空気は、昼の太陽に焼かれたアスファルトや、その中で活動していた人いきれをまだ内包していた。
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