帰り道

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帰り道

「お疲れ様です」  そう言いながら柊斗が居酒屋の倉庫兼スタッフルームに入ると、中では店長がパソコンで今日の報告書を作成しているところだった。若干建付けの悪いロッカーのカギを開け、三角巾とエプロンを入れる。代わりにサコッシュを出すと、背後から「ねえ真島くん」と店長の声がした。 「急で悪いんだけどさ、明日出てこれない?」 「え、いやー……明日はちょっと用事が……」  柊斗がもごもごと言いながら振り向くと、そうだよねえ、と柊斗の方に視線すら向けていない店長は毛の薄くなった頭頂部を掻いた。 「今年は就活頑張るって言ってたもんね、明日もなんかイベントでしょ?」 「ん、ま、まあ……」 「あーあ、真島君がいなくなったら痛手だなあ。このままウチで社員になっちゃいなよ」 「えと……もしもの時はお願いしますね」  冗談なのか本気なのか分からないテンションの店長に頭を下げ、店の外に出る。夜の静けさと、いまだ冷めやらぬ熱気が柊斗の全身を包んだ。 「あつ……」  思わずそう呟きながら、エアコンの室外機の前にいるのではないかと思うほどの空気の中を家路につく。住宅街の中の飲み屋である、すでに時刻は深夜一時過ぎであることもあり、街灯がおざなりに照らす道にはほかに歩いている人は見えない。  横断歩道の待ち時間の間に、ポケットからスマホを取り出す。夕方の休憩時間に確認したきりの画面には、メッセージが来ていることを通知する表示が出ていた。見なくても分かる。アルハヴトンだ。開くと、今日は裁判所の見学に行ってきた、と写真が添付されていた。 (……社会科見学かな?)  今日もマナギナと行ったのだろう。返信しようかどうしようか迷っているうちに横断歩道の信号が青になる。深夜に何も考えずスピードを出す車に注意しながら、柊斗は重い足取りで道路を渡りはじめた。  アルハヴトンの家に行ってから三週間。アルハヴトンはこうやって毎日連絡をくれていたが、柊斗はそれに返信できずにいた。 (なにが「ちゃんとしたい」だよ……)  あの日、寝室に連れて行ってもらった柊斗はそこでもアルハヴトンに泣きつき、一晩中抱きしめてもらって過ごしたのだ。泣き疲れたのとお酒が入っていたのとで途中で寝落ちてしまったが、正直なところ自分が何を言っていたのか、していたのか記憶もあやふやで自信はない。 ちゃんとしたいと言いつつこの体たらくで、アルハヴトンに迷惑をかけてしまっただけでも耐えがたいほど恥ずかしい。だが、それ以上に柊斗が危機感を抱いたのが、自分の自制心のなさだった。 (恋心を隠しつつ、「このままの関係を維持できれば」なんて、甘かった)  そんな屈強な精神力を、柊斗が持っているはずがなかったのである。少し考えれば分かりそうなことだった。今回はたまたま酒の力で寝てしまった――多分——が、そうでなかったらあのままアルハヴトンに「好き」と告げ、肉体関係を迫っていたに違いない。そんなことをしたらどう転んだとしてもいい結果にはならないのが目に見えていた。  どうしよう、と悩む柊斗とは裏腹に、夏休みに入ったせいかアルハヴトンはこまめに連絡をしてくるようになっていた。不躾かもしれないが距離を取ったほうがやはりいいのでは、と柊斗が返信をためらっているうちに、メッセージボックスの中にはアルハヴトンからの連絡だけが溜まり続けている。  ああ、もう、全部ダメだ。はあ、とため息をついてスマホをポケットに戻す。店長にはああ言ったものの、結局就活についても何もしていないし明日だって用事などない。アルハヴトンとのことが気になってどうにもやる気が起きないのだ。このままではまた去年と同じになってしまうというのは分かっていたが、すべてが億劫で仕方なかった。 (分かってる、分かってるけど……)  考えながら路地を曲がる。歩道も何もない生活道路だ。後ろから車が来るな、と音から判断して道の端に寄ると、柊斗の横を通り抜けた黒いワンボックスが数メートル先で停車した。 「……?」
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