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世界に色がついた、気がした。
いや元々カラーで世界を見ていたはずなのだが、五十六色がフルカラーになったというか解像度が上がったというか、とにかくその瞬間、柊斗の世界の見え方が変わったのだ。
彫りが深く、目鼻立ちがはっきりした顔立ちに、意志の強そうなはっきりした眉毛。その下の目つきは鋭いが、夜明け空を思わせる青色の瞳は意外とつぶらだった。肌の色は柊斗より少し濃いぐらいだろうか。獣人とは言うものの、特に毛深かったり獣っぽい顔立ちをしている訳ではないらしい。
(なんだ……?)
初対面の、しかも獣人に至近距離で顔を覗き込まれている。その状況と突然の自分の変化に全身が固まってしまい、視線を逸らすという発想も出てこなかった。柊斗がただその顔を見つめ返していると、ふわりと獣人の目が優しく細められた。頬に当てられた手がするりと肩へとなでおろされていく。
風に吹かれ、飛んできた桜の花弁がその肩口に音もなく積もる。そのピンク色すら、今まで見てきたものより鮮烈で、キラキラと輝いているように見えた。
「ああ……君、名前は」
「え、ええと……真島、真島柊斗です」
囁く唇の間から、大きく発達した犬歯が見えた。いったい何がどうしたというんだ。わななく声で答えると、獣人の向こうから「アル!」と叫ぶ声が聞こえた。グラルガグラ語だろう呪文めいた響きが続き、獣人がハッとした顔になる。柊斗とライオン獣人の間に割り込むように入ってきた狐耳の獣人と短く数回やり取りすると、小さく唸って柊斗から獣人の両手が離れた。
「す、すまない……人間はそうだとは知らず……驚かせてしまったな、柊斗よ」
「いえ、まあ、はあ……」
死ぬほど驚いているし今現在も服の上から分かりそうなほど動悸がしている。だがそれを口に出すのは不躾な気がした。震える指先でトートバッグを掴み、体の前で抱きかかえるようにして柊斗は深呼吸した。いつの間にか全身が汗でびっしょりと濡れている。
「あの、それで……何かご用でしょうか」
とりあえず怒っているわけではなさそうだ。落ち着け、と自分に言い聞かせながら口を開くと、「あっ」とライオン獣人は目を瞬かせた。
「そ、そうだな……あ、ええと、五号館はどこかな。教えてほしいんだが」
五号館。その言葉に柊斗は一気に現実に引き戻された気がした。今日の一限は五号館の二〇一号室だったはずだ。いつの間にか周囲の学生の数も激減している。
「五号館はこっちです! けど、ちょっと急いでもらっていいですか!」
「い、いや忙しいなら……」
「いいから!」
もはや説明する時間も惜しい。こっち、と手招きして走り出す。メインストリートを曲がって右、元は真っ白だったであろう、薄灰色のくたびれた豆腐のような建物に駆け込む。
「ここが五号館なんで! すいません俺これから授業あるんで失礼します!」
後ろを振り向き、ライオン獣人――と、ポニーテール姿――がついてきていることを確認してから、柊斗は二段飛びで階段を駆け上がった。ちょうどチャイムが鳴り始めた中を講義室に滑り込む。まだ教授の姿はない。
やれやれと思いながら、机と一体型になった椅子を開いて荷物を下ろす。
すると、今しがた閉めたはずのドアから獣人たちが入ってきた。
「えっ」
中腰の姿勢のまま止まった柊斗を見て、獣人は花が咲くような笑みを浮かべた。先ほどかなり無作法に別れを告げたばかりだというのに、それはまるで長年離れていた恋人にでも会ったかのようだった。
「あ、まだ何か……?」
「いや、私もちょうどこの教室に来ようとしていたところなんだ」
「そ、そうだったんですね」
それは随分と滑稽なことをしてしまった。走ったせいか羞恥のせいか火照ってきた頬を手の甲で押さえながら腰を下ろすと、満面の笑みを崩さぬまま獣人も柊斗の隣の椅子に座った。当然のような顔をして、ポニーテールの人もその向こうの席につく。
人間用の椅子はどうも獣人には大分小さいらしい。脚を広げているわけではないのに、獣人の逞しい太腿が柊斗を押してきた。服越しに硬く引き締まった筋肉の塊を感じて、思わずどぎまぎしてしまう。
「同じ授業とは奇遇だね。嬉しいよ、柊斗」
「あっはい」
混乱と緊張のあまり訳の分からない答えを返しながら、柊斗はそこでようやく自分だけしか名乗っていないことに気が付いた。
「あの、すいません、差し支えなければお名前……」
きょとんとした顔をした獣人は、目をぱちぱちとさせた後「ああそうか」と何か納得したように頷いた。
「遅れて申し訳ない。私の名前はアルハヴトン・リア……パラッタだ。こっちはマナギナという」
「アルハブトン・リア・パラッタさん……と、マナギナさん……ですね?」
復唱すると、隣のライオン獣人とその向こうのポニーテール姿が順番に頷く。ちょっと発音が違ったような気もするが、そこは大目に見てくれているようだ。
膝の上に置いていた手を獣人——アルハヴトンに包み込むように握られて、柊斗は飛び跳ねそうになった。きらきらとした青い目が臆することなく近づいてきて、思わず背をのけぞらせてしまう。
「ぜひ……アル、と呼んでくれ、柊斗」
「アルさん?」
「いいや、さん付けもなしだ」
「ア、アル……」
睦言でも囁くかのような甘い声色に困惑しながらそう言うと、「そうだ」とアルハヴトンは満足したように尻尾を振った。
「ここでは……柊斗の前では、ただのアルでいたいんだ」
「はあ」
どういう意味だろう。疑問に思ったものの聞き返す前に教授が現れ、結局その話はそこまでになった。
せっかく頑張って登校してきたというのに、アルハヴトンの脚から伝わる体温ばかりが気になり、柊斗は全く授業に集中できなかった。
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