犬吠埼

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犬吠埼

 九月末の犬吠埼は、まだ残暑を残していた。髪を引きちぎらんばかりの強い風が吹き付けていて、崖下では海面から飛び出した岩に波をぶつけては白波を散らしていた。  灯台横に作られた飛竜場は、受付のプレハブ小屋がなければだだっ広い野原のようにしか見えない。あまりのシンプルさに不安になった柊斗が見まわすと、遠くの方に赤いドラゴンが見えた。スマホを構えるが、遠すぎるせいで、ズームすると画質が荒くなってしまうので諦める。搭乗時間になったらゲートの近くに来るだろうか。 「柊斗、本当にいいのか?」  振り向くと、柊斗より頭二つ分は大きいアルハヴトンが肩に手を置いてきた。その横にはマナギナが立っているが、海辺の激しい風に吹かれ、二人とも頭がぼさぼさだ。 「そうですよ真島さん、今からでも遅くないです。私が降りれば――」 「ありがとうございます。でも、いいんです」  マナギナを見て、それからアルハヴトンを見上げて、柊斗は頷いた。 「俺は……自分の力でグラルガグラに行くって、決めたんで」 「グラルガグラに一緒に行かないか」とアルハヴトンに誘われて、約一か月。  柊斗が出した答えは――「行かない」だった。  アルハヴトンと離れたくなかった。伴侶になってほしいと言われたのは、本当に嬉しかった。運命であるということを理由に特例としてグラルガグラに渡航できるというのにも、正直心は動いた。だが、それではいけないと思ったのだ。  アルハヴトンとの未来を見据えるというのは、すなわち自分が王配になる覚悟を決める、ということでもある。 「果たして、王配になる人間が、『運命だから』というだけで特権を利用し、突然他国からやって来るような男でいいのだろうか」そう考えた時、「それではダメだ」と思ったのだ。  獣人がほとんど人間界に来ていないのと同様、人間だって獣人界にはほとんどいないはずだ。そうなると、柊斗は人間や日本人の代表として見られてしまうだろう。  運命だからアルハヴトンと結ばれている、のではなく、国に相応しい人間だから王の伴侶となった、それがたまたま運命の相手だったというだけだ――そう思われるような人間でありたい、と思ったのだ。  そうすることで、人間へのイメージが変わってくるから。  一緒にグラルガグラに行かない代わりに、この一か月ちょっとの間は、アルハヴトンと柊斗、それからマナギナでいろんな場所に出かけた。海や映画、お祭り、花火、ショッピングモールや博物館……少しでもたくさんの思い出を残しておきたかった。  きっと、アルハヴトンが一個人として気兼ねなく遊べる機会も、もうないから。 「時間はかかるかもしれないけど。でも、アルに相応しいってグラルガグラ王国の人たちに思ってもらえるようになりたいんだ」 「分かった。何回も聞いて悪かったな。王位などくれてやると思っていたが……自信を持って柊斗を招待できる国にしなくてはならないな」  ゆっくりと頷くアルハヴトンの髪を、また潮風が乱す。細かな波の粒が柊斗の頬にぶつかった。 「一三時の便、搭乗開始しまーす!」  牧歌的な声に振り向くと、いつの間にかプレハブ小屋の近くにレッドドラゴンが来ていた。異世界のゲートを通るドラゴン、というからさぞかし大きく立派な竜なのだろうと柊斗は勝手に想像していたのだが、どう見ても軽自動車程度の大きさしかない。先ほど遠すぎると思ったのは、どうも想像より小さかったせいらしい。確かにこれでは大人数は運べないな、と柊斗は納得した。せいぜいで六人がいいとこだろう。 「ああ……もうそんな時間か」  早いな、と呟いたアルハヴトンは、ふと思いついたように胸元に手を入れた。いつも首から下げているメダルを取り出し、両手の指先で持つ。その指先から一瞬だけ黒い爪が伸びたかと思うと、ぱきりとメダルは二つに割れていた。 「柊斗、これを」  言われるままに手を出すと、メダルの片割れを手のひらの真ん中に置かれた。今までよく見たことはなかったが、アルハヴトンの首に残っている方に太陽が、柊斗に渡された方にライオンが彫られている。 「あの、これって……」  太陽と、ライオン。何となくグラルガグラを思わせるデザインに上目遣いでアルハヴトンを見上げると、にやりと笑う牙が見えた。 「王家であることを示す証だ。持っててくれ、柊斗」 「それ、大切なものじゃないの? 割っちゃっていいの?」 「我々は魂の片割れだ、問題ない」 「……分かった」  本当なのかどうなのか分からないが、もう割ってしまったものはしょうがないのでありがたく受け取ることにする。手の中に入れて握りしめると、割れた端の部分がチクチクと手のひらを刺した。目の奥が熱くなるのを必死で堪え、夜明けを思わせる神秘的な色の瞳を見つめる。 「またね、アル」 「ああ。またな、柊斗」  背伸びをして、軽く屈んだアルハヴトンと鼻を合わせる。  またしばし見つめ合ったのち、アルハヴトンはゆっくりと柊斗に背を向けた。二人分の荷物を持ったマナギナが後に続く。一瞬だけこちらを向いたマナギナに手を振り、受付の獣人に渡航証を提示してゲートを通る二人を柊斗は見送った。 「Pesphene, lei testinkat!」  ドラゴンの背中、そこに括りつけられたカゴに乗り込むアルハヴトンに、柊斗は持てる限りの大声で叫んだ。軽く柊斗に手をあげるアルハヴトンと、驚いたようにこちらを振り向く何人かの獣人が見える。  シートベルトのチェックをした乗務員が、笛を吹きながら手を上げた。手綱を引かれたドラゴンが首を振り、崖の方を向く。  崖の手前にいる係員が、違う音色の笛を吹きながら手旗を振った。ぐっ、とドラゴンがかがみこみ、助走を始める。あっという間に崖の外に飛び出し、蝙蝠状の羽を広げる。そして房総の海風に吹かれて高く舞い上がった。 抜けるような空に白いちぎれ雲が浮かび、キラキラと波が光を反射するその景色は、今までのどんな日より美しい。  赤いドラゴンが見えなくなるまで、柊斗は青い空と、そしてその下に広がる海を見ていた。  崖のところにいた係員がプレハブ小屋に戻ってきた頃、柊斗は飛竜場に背を向けた。  振り返ることはしなかった。  やるべきことは、もう決まっていたから。
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