夏、影の色濃し

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夏、影の色濃し

 アルハヴトンとの待ち合わせのため、頃合いを見計らって図書館から出る。その途端、ミーンミンミン、というセミの声が降ってきた。クーラーで冷えていたはずなのに、あっという間に額から汗が噴き出してくる。 (……嫌な季節になったな)  汗がべたつくのも不快だが、それだけではない。どうしても去年、彼女に振られたことを思い出してしまうからだ。  ちょうど今頃——春学期試験直前という時期が時期だっただけに、試験の結果は散々だった。そこで卒論の履修要件だった「国際社会学Ⅰ」の単位を落としてやる気がなくなってしまったのと、そもそもそれまでの勉強の積み重ねがなかったのとで秋学期も苦労し、今年もほぼ去年と同じ授業を取りなおす羽目になっているのだ。 (「柊斗との将来は考えられない」って振られたってことは、向こうは俺との将来を考えてくれてたんだよな)  好きだった、とは思う。だが、柊斗はそんな先のことなんて想像したこともなかった。本当に申し訳ない、せめて真面目になろう、と決心して二度目の三年生を過ごすことにしたのである。 (「将来」ねえ……)  そんなことを考えながら歩いていたからだろうか。掲示板に貼られているポスターの、「就活ガイダンス」という言葉が目に飛び込んできた。 (えっ、あ、就活、そうか、もうそんな時期なのか)  去年はそんなことに興味がなかったので、全くスケジュールを把握していない。近寄ると、「三年生向け第二回就活ガイダンス ~インターンシップ直前の心構え~」とある。日付は来週だ。第二回ということはすでに第一回が柊斗の知らぬうちに開催されていたわけで、どうやらすでに出遅れているらしい。ひえっ、と横を見ると、他にも「ES作成講座」「業界・企業研究のしかた」など多数セミナーやガイダンスのポスターが貼られている。 「うわー……」  今年はしっかりしよう、と思っていたが、どうも全然できていなかったようだ。バッグをすぐ横の花壇のレンガの上に置き、配布用のラックの中にある資料を片っ端から一部ずつ集めていく。分厚い紙束になったそれを整えて振り向くと、花壇に置いていたバッグにTシャツ姿の男性が手を伸ばしているところだった。 「あっ」  柊斗が声を上げると、男性はびくりとなって鞄から手を放した。 「す、すいません、落とし物かと思って!」  早口でそれだけ言うと、恥ずかしかったのか、顔を伏せたまま逃げるように走り去ってしまう。 (悪いことしちゃったな……恥をかかせるつもりはなかったんだけど)  念のため中身を確認するが、異常はないようだ。チラシを入れ、アルハヴトンの待つ空き教室に向かう。  三号館一〇四号室。中庭に面した半地下になっているここは、一日中薄暗い代わりに夏でも涼しい。さっきかいた汗が冷え、シャツが肌に張り付いてくるのを剥がしながら戸を引くと、逆光の中で彫像のような青年が振り向いた。大きめに開かれた胸元からは鎖骨とその下についた豊かな胸筋が覗いていて、柊斗はなんだかいけないものを見てしまったような気がして目をそらした。アルハヴトンの隣に座るポニーテール美人にその様子を笑われた気がして、どうにも居たたまれなくなる。 「ま、待たせたかな、ごめん」 「いいや、ちょうどお茶をしていたところだ。柊斗も食べるといい」  どうやらそれは本当のようで、アルハヴトンの前には何やらタッパーが置かれていた。二人に向かい合うように椅子を動かして覗き込むと、中にはスティック状のクッキーのようなものが入っている。差し出されるまま一つつまむと、しっとりとした重みが指先に伝わった。 「これは……?」 「グラルガグラのレペイユという菓子でな、マナギナが作ってくれたんだ。まあこっちの材料だから少し味は違うが」 「へえ、マナギナさん料理上手なんですね!」  手作りなんだ、と思った瞬間、なんだか心の底がちりっとした。いただきます、と告げて口の中に放り込む。 「あっ、真島さ……」 「んんん!」  甘く蜂蜜の香りのするクッキー生地の中にゼリーのようなものが入っていた、のだがそれが辛い。ジンジャーエールのような風味なのだが、おいしいとかおいしくないとかではなく、とにかく辛い。 「ほらアル、人にあげたいなら辛さ控えめにした方がいいと言ったでしょう」 「ううむ、そのようだな」 「い、いやあのおいしいです! おいしいんですけどっ」  噛んでいるうちに、奥にほのかに甘味が隠れていることが分かってくる。だが強烈な辛さの前に委縮して存在感を消そうとしている、そんな感じだ。  これは飲み物がないときつい。バッグの中から水のペットボトルを取り出してキャップを開ける。その瞬間、アルハヴトンの隣りにいたマナギナの眼光が鋭くなった。 「真島さん!」  鋭い声と共に手が伸びてくる。パン、と弾かれたペットボトルが宙を舞い、床に落ちて水を広げた。 「えっ……マナギナ、さん?」  柊斗が小さく呟くと、「あっ」とマナギナはわざとらしく口元に手を当てた。 「ご、ごめんなさい、つい手が滑っちゃって……代わりのお水買ってきますね!」  ついも何も、マナギナは今、明らかに狙ってペットボトルをはたき落としていた。柊斗が呆然としているうちにマナギナが床の水を拭き、尻尾を振って部屋から駆け出していく。気がついたときには、アルハヴトンと部屋に二人きりになっていた。 「ごめん、アル……おいしくなかったわけじゃなくて、ただ見た目から想像してた味と違ったからびっくりしちゃって……」  あまりの辛さに驚いたとはいえ、今のリアクションは確かに失礼だった。誰だって自分の作った菓子を食べて不味そうにされたら嫌な気持ちになるはずだ。握り込んだ指先は、夏なのに冷たく強ばっている。  振り向くと、床に散らばったレペイユを、睨むような視線のアルハヴトンがかがんで拾い集めていた。さっき一緒に落ちてしまったようだ。 「あっ……」
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