雨上がりのハ短調「悲愴」

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 勝代は神妙な顔でソファーに座り、書類を前にする。6人の刑事たちが来て取り囲んでいた。 「忘れて、脱税してしまったのですわ。納めますから」  金額としては大金でもないだろう。うっかりして確定申告しなかったというのはお約束事。  一千万円のことが気になるだろうけれど、自分からは喋らないつもりらしい。  刑事たちは電話で何か確認していた。 「それで。祖母や祖父の反応は」  津川が近くの刑事に聞く。 「指導代金として、年に何回か支払ってるようです」 「一万円か」 「高額だと、十万。中学生の孫のために50万円を払った方がおります」 「親御さんには内緒だな。孫を思う年寄りの想いか」  それで、一千万円も集まったわけだ。 「先生はただでも教えるのにな。本当に個別指導したのか」  秀哉は勝代に訊ねる。 「コンテストに出場すれば、喜んで支払ってくれた。孫は可愛いものらしいよ」  紗月はそれに納得しない。 「便乗詐欺だね。子供の実力を指導のお陰と騙したよね」 「私は、おめでとうと挨拶しただけ。お願いしますというから、お金も受け取る。同意のもとで、弁護士の証書もあるから」 「それだけどねー。15歳未満は保護者の同意が必要で、祖母や祖父じゃないよ」  たしかに、頼むのは小学生への個別指導だ。信用させるために弁護士をだしたはずだけれど、正式な書類には正式な手続きが必要になる。 「そうだ。この弁護士。つみましたな」  津川は納得したようにうなづく。こんどは勝てると判断したのだろう。 「これは。ええと。私が」 「偽造だと。弁護士を語る詐欺だな」  秀哉も追い詰める。  津川が思いついたように電話する。 「津川です。あなたの名前を語る詐欺師がみつかりましたが、覚えありますか」 「誰です。詐欺とか、穏やかじゃないですな」  スピーカーモードにしている。 「正直にいいましょう。小学生の契約に対する保護者の委任状が必要なんですが、関係してますか」 「それか。あれでしょ。無効ですよ、ただの紙切れ」 「私も荒立てたくはない。偽造で、ここにいる人物を逮捕します。あなたには関りのないことだと判断していいですね」 「はい。良いですよ。たぶん、あれでしょ。手を引きましょう」  慌てたのは勝代。立ち上がる。 「お話を。ご同行願えますかな」  津川が促して、連れてゆく。あとを追う刑事たち。 「そうだ、お肉。冷凍庫にいれなきゃ」  紗月が思いだしたようにいう。 「みんなに話さなければな。根っから陽気な連中だから。笑い飛ばすさ」  秀哉は山野のしでかした事件に気付いてもいるが、捕まるだろうし、いまは救急車で運ばれているだろう。  友梨佳とは昨日からいたはずの山野。それで勝代とトラブルにもなったのだろう。 「純粋に音楽を楽しめなくなった連中だよ」  恋と金に溺れた愚かな人間の行為だと笑い飛ばすしかない。 「孫を可愛がる気持ちに付け込んだのさ」 「子供も不憫だよ」  外へ出る二人。雨上がりの空気は清らかな風の匂い。ちっぽけな人間の欲望は知らないように、蛙がどこかで演奏を始めた。それはベートーヴェンのピアノソナタ第8番ハ短調作品13・悲愴。
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