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06.浮上
意識が浮上する。
ベージュの天井が見える。
窓の外には青い空が、見える。
「どこだ、ここ」
呟いた言葉は、誰もいないホテルの壁に消えていく。何の音もない静かな部屋だ。
「――あいつは?」
思い出して咄嗟にベッドの横を見た。誰もいなかったのでほっとする。
ユウヒ。俺は昨晩あいつに襲われた。それは覚えているのに、それ以降の記憶はない。
横のテーブルには一泊分の代金が置かれている。
「気絶しちまったのか、俺」
情けない奴だと自分を責める。耐えると決めたのならば気を持って耐え続けるべきだったのに。諜報員としてなんて使えない奴なんだ。
俺は立ち上がって部屋やバスルームを見て回った。あいつがいた痕跡が残されてもいなければ、もちろんあいつの影はない。あんなにヌメヌメしていた風呂も、綺麗に掃除されているらしい。ツルツルピカピカに変貌していた。なんだあいつ。潔癖かよ。そもそもあそこまでヌメヌメさせたのはあいつじゃないのか。
あいつの優しい顔を思い出して、嫌悪感に駆られる。
いや、そんなことを考えている場合ではない。俺が今すべきことは、自分の無事を確認することと、”姫”に関する情報を整理してボスに報告することだ。こんな諜報はもうやめるべきだと思う。俺の貞操が危ない。
「何を言ってんだ、お前」
自身のケツの無事を確認した俺はボスの屋敷へ直行したが、そこでお叱りを受けるはめになった。
「こんな少ない情報量で諦めようとしてんのか」
その通りです。はい。
「自分の危険を顧みずに情報を集めてくるのが諜報だと思うのだが」
「はい」
俺は肯定の返事を返すことしかできない。
「もう一度情報を集め直します」
素直にそう言ってボスの顔を見ようとしたが、ボスは向こう側を向いていてまたも顔は見えない。今は昼なので窓から光はあまり差し込んでいないのだが。まさか俺が朝に来たから怒ってる?
「そうしろ」
ボスは一体何者なのか。俺としてはそっちの方が気になるのだが、そのことは絶対に言えない。
俺はボスに向かって深く礼をして下がった。
その後、俺はすぐにツバサと会う約束を取り付けた。
「例のマッチングアプリの姫のことなんだけど」
「なんのこと?」
ツバサがあまりにも意外な返答をしてきたので二人で見つめ合って固まってしまった。
「いや、だからマッチングアプリの――」
「マッチングアプリ?」
は、こいつは何を言ってるんだ? 俺は少々怒気を孕んだ声で責め立てた。
「この前会った時に話しただろ」
「そんな話してないよ」
酔っていたから覚えていない、ってことは絶対にない。なぜならこいつは酒が飲めないからだ。俺も大事な諜報活動だったので酒は入れていなかった。全てが俺の妄言であるという可能性も完全に否定できる。
「してただろ」
「してないが」
これでは埒が開かないと判断した俺。きっとこれは口止めされているのだろうと思った。何者か、と言いたいところだが、ここで口止めしてメリットのある人物はあいつしかいないのだ。そう、ユウヒに違いない。
昨日は大丈夫でしたか。もう一度会えませんか。なんて取り繕った敬語のメッセージがユウヒから送られてきたのはそれからすぐのことだった。
俺は昨日の一件で、あいつの優しそうな顔と声がまるで偽物で、あいつ自身もとんだ偽善者であるのを知っている。こんな釣りのようなメッセージに乗ってノコノコと着いていくわけにはいかない。昨日と違って、と付け足さなければならないが。
「あいつも暇なのかな」
この後に及んで俺に構ってくる意味が分からない。俺はもう既に懲りているのだから、これ以上脅かしたって無駄なのに。
さてどうしようか、なんて独り言を呟いて自室のベッドに寝たが、あのバクバクと鼓動でベッドが揺れるような感覚を思い出してしまい、すぐに起き上がる羽目になった。ため息をつく。
今日の様子だと、ユウヒはもう自分を知る者に箝口令を敷いているだろう。組織内の誰に聞き込みしたところで口を割る見込みはない、が大事にもしたくない。もしも暴力を使って拷問をするようなことがあれば、罰せられるのは俺なのだ。警察組織である鶴喰にお世話になるようなことは避けたい。
となると、昨日のような状況に陥らないように気をつけながら、それでも本人と接触するしかない、という結論に辿り着かざるを得ない。それって、すごく難しいことじゃないのか?
「あいつの影響力ってすごいんだな」
姫と呼ばれるだけある。この組織内で密かに箝口令を敷けるのは、なかなかの実力者だというとに違いない。あいつの役職について考えてみてもいいかもしれないな。
まず、俺の所属する鷦鷯派でないことは確かだ。俺は今まで会ったことがないから。だとすると善知鳥派か鳰派か無派閥ということになるが、この先は見当がつかないので考えるのをやめた。
俺は新しい仲間も探さなければならないっていうのにな。
そういうわけで、俺はその日全ての仕事を放り出して寝入ってしまったのである。
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