月下の死闘

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月下の死闘

 目的の、伐採キャンプにたどり着けた。  ここからは大きな道が街まで続いてるから、割と安全に街まで行くことができる。  歩を止めて、気配を探る。  周囲に狼の気配はない。  少なくとも、“感じられる”気配はなかった。 「ふぅ」  安堵のため息をひとつ。  そして、背後で何かが地を蹴る音が聞こえた。  反射的にナイフを構えるけど、“それ”の動きの方が早かった。  叩きつけられる衝撃で、視界が大きく動いた。  月光の下に、それの姿が露わになる。  それは、巨大な狼だった。  さっきまで相手にしていたものより、一回りも二回りも大きい。たぶん、群れの長。  気配に気づけなかったのは、気配を探っていた範囲よりも遠くにいたから。  油断した瞬間を狙って、一瞬で距離を詰めての一撃。  最初の一撃は動きを止めるためのもの。  次は獲物をしとめるために、喉を狙ってくる。それが、野生動物の定石。  狼の口が、目の前にあった。  覆い被さるような状態で胸を押さえつけられ、逃げることはできない。  その瞳からは、ドス黒い、嫌な感情をひしひしと感じる。  狼がこのまま、何もしないで解放してくれるわけがない。  体当たりで吹き飛ばされ、組み伏せられて、今のところは完敗。  あとは喉をばっさりやられて食べられるだけ、なんて、そういうのはお断り。  食らいつこうとする狼の鼻の頭を、その穴を、手で掴み封印する。  呼吸を乱されると、生物は動揺する。  鼻呼吸を止められた狼は狼狽え、そこには隙ができた。  自由な右手でナイフを抜き、狼の胸に突き立てる。  肉や骨を断ち切って、刃が狼の体内に呑み込まれていく。  狼は後退しようとするけど、それを許すはずがない。鼻を掴む指に、精一杯の力を込める。  狼の口の隙間から生暖かい風が抜けていき、ナイフを持つ右手を、温い液体が汚していく。  狼の目から光が失われるのに、時間はかからなかった。  巨体が崩れ落ちる。  全力の反動で左手の感覚がなく、右手は血塗れでドロドロ。悲惨なことこの上ない。 「倒れていいのは、宿についてから、なんだよね」  狼の下から這い出る。  吹き飛ばされた時に痛めたのか、全身の痛覚が仕事をしてくれている。 「もう、最悪……」  悪態をつく。  半分は全身の痛みに対して。  もう半分は、自分の読みの甘さに対して。  伐採キャンプは夜間であっても人間のテリトリー、なんて考え方が甘かった。  ピンチに次ぐピンチ、なんて三文小節のネタにはおいしいかもしれないけど、当事者にとっては迷惑この上ない展開なわけで……。  ようやくボスを倒せた、って思った瞬間、目の前にもう一匹、似たような個体が現れるとか……。  視線の先、少し離れたところに、近くに転がってる躯と同じくらいのサイズの狼が一匹。  その周囲を取り巻くように標準サイズの狼が5、6匹ほど、威嚇するようにこっちを見てる。  たぶん、群れ長のつがいとその取り巻き。  どう見ても、無茶苦茶怒ってるようにしか見えないわけで……。  手元にはナイフが数本。  生存確率は……かなり絶望的かな。  手元の薬草が届かなかったら孤児院の子供の命が危なくなるっていうのが一番の気がかりで、あとは、書き掛けの三文小説のストックを処分してないっていうのが心残りだったりして……。  あんな恥ずかしいもの残して死ぬなんて、絶対ムリ!!  断固、死ぬわけにはいかない!  体中が痛いけど、あれを処分するまでは死んでも死にきれない。  ナイフを握る手に、力を込める。  周囲に遮蔽物はなく、走って逃げ切る事はほぼ不可能。つまり、戦うしか、道はない。  立ち上がる。足が震えているのはきっと気のせい。  ナイフを構え、狼の群を見据える。  風がざわめき、雲が動く。  月光に陰が差した瞬間、狼が地を蹴った。
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