雨上がり突撃隊

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 1917年、夏。  ベルギーのイーペル近郊。  ジェームス・シェパード少尉は塹壕の中で身を屈め、腕時計を凝視した。  2週間以上続いた砲撃が、この地を一面の荒れ地に変えていた。  荒れ地を覆うように降り続いていた雨が、今日は珍しく小降りになっている。 「あと5分です」  伍長の声が耳元で響いた。  シェパードは塹壕の壁を伝って滴る水滴を見つめながら、唇を噛んだ。  これまでの戦訓が頭をよぎる。  いくら長期の砲撃を行ったところで、塹壕と鉄条網を主軸とした敵陣地を完全に破壊することはできない。  それどころか、敵に十分な準備時間を与えてしまった可能性すらある。  さらに、この異常な雨だ。  地面は完全な泥濘と化し、進軍は極めて困難になるだろう。 「60秒前!」伍長の叫び声が響く。    シェパードは深呼吸し、兵士たちの顔を順に見つめた。  緊張と恐怖、そして決意が入り混じる表情。  彼は声を振り絞った。 「諸君、我々の任務は重要だ。味方の砲撃に続いて前進し、敵の第一線を突破する。地面は泥濘だ。しかし、それは敵にとっても同じだ。砲撃の遮蔽に従い、迅速かつ勇敢に進軍せよ。神と国王陛下のために!」 「30秒!」  兵士たちはライフルを構え、塹壕の梯子に手をかけた。前方では味方の砲撃が新たな激しさを増していた。 「10秒!」  シェパードは最後に空を見上げた。霧雨の向こうにわずかに見える空が、朝日で赤く染まっている。 「行け!」  ホイッスルの鋭い音が鳴り響き、兵士たちは一斉に塹壕を飛び出した。  泥まみれの荒れ地を這うように進む彼らの姿は、まるで霧の中から現れた亡霊の軍団のようだ。  前方では味方の砲撃が徐々に遠ざかり、その遮蔽に従って兵士たちは前進を始めた。 「前へ! 国王陛下万歳!」  シェパードがライフルを掲げた瞬間、霧が薄らぎ始めた。  イーペル近郊の荒廃した風景が目の前に広がる。  かつては緑豊かだった丘陵地帯が、今や2週間の砲撃で完全に変貌し、泥と水たまりだらけの月面のような景色と化していた。  雨上がりの空気が重く肺を圧迫する中、シェパードは足を進めた。  地面からの蒸気が霧と混ざり合い、幻想的な光景を作り出している。  その蒸気が時折視界を遮り、敵の位置を判断することを困難にしていた。  足を踏み出すたび、泥に足を取られる。  靴が重く、ぬかるみに吸い込まれそうになる。  周りの兵士たちも同様だ。膝まで泥に埋まり、仲間に助けを求める声が聞こえる。  突如、敵陣からの機関銃の掃射が始まった。  弾丸が空気を切り裂き、泥の中に激しく打ち込まれる。  シェパードは反射的に地面に身を伏せた。  横腹に泥水が跳ね、冷たい感触が背筋を走る。 「散開せよ!」シェパードは叫んだ。 「壕の跡を利用しろ!」  兵士たちは必死に動き、砲撃で出来た穴や古い塹壕の残骸に身を隠す。  しかし、思うように動けない。  泥に足を取られ、転倒する者も少なくない。  シェパードは周囲を見回した。  雨上がりの戦場は、生と死が入り混じる他に類のない光景を呈している。  泥だらけの地面から、かろうじて生き残った雑草が顔を出していた。  そのわずかな緑が、死を象徴するかのような灰色と茶色に支配された風景の中で、異様に鮮やかに見えた。  突然、近くで砲弾が炸裂した。  衝撃波と共に泥と水が空中に舞い上がる。  一瞬の白い閃光の後、シェパードの目に飛び込んできたのは、吹き飛ばされた兵士の姿だった。 「衛生兵!」誰かが叫ぶ声が聞こえたが、すぐに戦場の喧騒にかき消されていく。  シェパードは歯を食いしばった。  前進しなければならない。  たとえこの地獄のような泥沼の中でも。 「突撃だ!」シェパードは叫んだ。 「あの丘を越えれば勝利だ!」  兵士たちは再び立ち上がり、泥と水しぶきを上げながら前進を始めた。  その姿は、まるで泥の海から這い上がろうとする亡者たちのようだ。  空には薄日が差し始め、湿った地面や装備、兵士たちの顔を照らし出した。  シェパードは一瞬、目を細めた。  久しぶりに見た太陽の光が、濡れた装備や兵士たちの顔に反射して眩しい。  この異様な明るさが、かえって周囲の惨状を際立たせているようだった。 「前進!」シェパードは叫び、泥濘を這うように進んだ。  晴れ間が広がるにつれ、戦場の様相が鮮明に見えてくる。  砲撃で形成された無数のクレーターが、まるで月面のように広がっていた。  その窪みには濁った水が溜まり、小さな湖のようになっている。  所々に散らばる兵士たちの遺体が、水面に映る青空と不釣り合いな光景を作り出していた。  突如、シェパードの左耳をかすめるように弾丸が飛んでいった。彼は反射的に身を伏せる。 「敵狙撃手だ!注意しろ!」  シェパードは叫びながら、周囲を警戒し直す。  晴れてきたことで視界は良くなったが、それは同時に敵からも狙われやすくなったことを意味する。  冷や汗を感じながら、次の行動を考えた。 「グリーン小隊、左翼を迂回せよ!ブルー小隊、正面突破!」  命令を下しながら、シェパードは自身の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。  この決断が正しいのか、未だに戦場での経験が浅い彼には確信がなかった。  しかし、躊躇している暇はない。  兵士たちが動き出す中、再び激しい機関銃の掃射が始まった。  シェパードは咄嗟に近くのクレーターに身を投げ出した。  泥水が彼の顔にはね、口の中に入り込む。  吐き出した唾には血の味がした。 「少尉!」誰かが叫ぶ声が聞こえた。  シェパードが顔を上げると、彼の部下の一人が倒れているのが見えた。  躊躇なく、シェパードはクレーターから這い出し、その兵士に向かって走り出した。  その瞬間、世界が一瞬にして静まり返ったように感じた。  シェパードの耳には、自分の荒い呼吸と激しい心臓の鼓動しか聞こえない。  太陽の光が一層強くなり、彼の周りの泥濘さえも輝いて見えた。  時間が止まったかのような感覚の中、シェパードは前に進み続けた。 「少尉!気をつけて!」  誰かの警告の声が聞こえた瞬間、シェパードの右側で砲弾が炸裂した。  衝撃波で彼は吹き飛ばされ、再び泥濘の中に叩きつけられた。  耳鳴りと共に、ゆっくりと意識を取り戻す。  シェパードは自分の体が無事であることを確認し、よろよろと立ち上がった。  晴れ渡った空の下、戦場は依然として混沌としていた。  しかし、シェパードの目には、わずかながら前進している味方の姿が見えた。 「まだ終わりじゃない」  シェパードは、自分自身に言い聞かせるように呟いた。  珍しく晴れ渡った空。  泥濘と瓦礫の中を這うように進むシェパードを含めた兵士たちの姿は、まるで地獄からの生還者のようだった。 「そこだ!敵の第一線が見える!」誰かが叫んだ。  シェパードは目を凝らした。  確かに、100メートルほど先に敵の塹壕が見えている。  しかし、その手前には幾重にも張り巡らされた有刺鉄線が待ち構えていた。 「鉄線切断班、前へ!」シェパードは命じた。  数人の兵士が大きな鉄バサミを手に、前方へ這い出た。  彼らは敵の機関銃掃射をかわしながら、必死に有刺鉄線に向かって進んでいく。  突然、シェパードの左側で砲弾が炸裂した。  泥と破片が空中に舞い、一瞬視界が遮られる。耳を劈くような悲鳴が聞こえた。 「衛生兵!左翼に衛生兵を!」  シェパードは叫んだが、その声は戦場の喧騒にかき消されていった。  鉄線切断班の一人が倒れた。  しかし、残りの兵士たちは諦めることなく前進を続ける。  シェパードは歯を食いしばり、自らも前へと這い出た。 「掩護射撃だ!」彼は命じた。 「鉄線切断班を守れ!」  ライフルの発射音が響き渡る。  敵の機関銃座のいくつかが沈黙した。  その隙を突いて、鉄線切断班が有刺鉄線に到達する。 「やった!突破口だ!」  鉄バサミの音が聞こえ、やがて有刺鉄線の一部が切断された。  小さな突破口が開いたのだ。 「突撃だ!」シェパードは叫んだ。 「あの突破口を目指せ!」  兵士たちは一斉に立ち上がり、泥だらけの体で前進を始めた。  敵の機関銃が再び火を噴き、多くの兵士が倒れていく。  しかし、勢いは止まらない。シェパードも全力で走った。  足元はぬかるみ、何度も転びそうになる。しかし、彼は必死に前を向き続けた。  突破口まであと5メートル。  ………3メートル。  …1メートル。 「突撃ーっ!」  シェパードは最後の力を振り絞って跳躍した。  彼の体が有刺鉄線の上を飛び越え、敵の塹壕の中へと転がり込む。  激しい衝撃と共に、シェパードは塹壕の底に叩きつけられた。  彼は咳き込みながら、ゆっくりと顔を上げた。  スコップを持った敵兵がシェパードに襲いかかる。  距離は近い。  絶体絶命だ。  しかし、次の瞬間。敵兵はどっと倒れた。  周りを見回すと、数人の仲間たちが既に塹壕に飛び込んでいた。 「少尉!大丈夫ですか?」    敵兵との接近戦が始まっている。  シェパードは頷くと、ライフルを構えた。  彼らは奇跡的に敵の第一線に到達したのだ。 「この塹壕を確保するんだ!」シェパードは叫んだ。  兵士たちの戦闘の叫びが響く中。  シェパードには、晴れ渡った青空が、まるで彼らの勝利を祝福するかのように輝いて見えた。  シェパードは再びライフルを構えて、敵兵士との戦闘に備えた。  ここ最近では珍しい晴れ間が広がる中、泥と血にまみれた兵士たちによって、塹壕内では血みどろの白兵戦が始まっていた。
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