雨中の仙人掌

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雨中の仙人掌

      今年も仙人掌(サボテン)の花が咲いた。  乙女のように慎ましく、愛らしいピンクの花。  この花が咲く度に、私は彼のことを思い出す。  私の日常は、向かい風の豪雨のようなものだ。  机に向かう私の目の前には、縁野(ゆかりの)大学医学部の赤本。私はついさっき、医学部浪人二年目を迎えることが決まった。部屋の外から両親の口論が聞こえてくる。 「お前が芽依(めい)を管理していないから、また不合格だったんだろう!」 「私のせいだっていうの? 貴方だって芽依のこと全然見ていないじゃない!」  娘も自分と同じ大学を出て、同じ医者になって当然だと考える父親。  自分の学歴にコンプレックスを抱えている母親。  この両親の傘の下、私は生まれた。  聞こえてくる怒号が、私の胸をぎちぎちと締め付けてくる。両親は私に過度な期待をかけているが、私は私自身に何も期待していない。でも、諦めることは許されない。  両親の怒声をかき消すため、私は震える手でヘッドホンをつける。そして雨音の背景音楽を大音量で流し、頭の中にスコールを降らせた。  そして始まった、二年目の予備校生活。私は教材を抱えて自習室へと向かっていた。家だと苛々した母親に監視されながらの勉強になってしまう。そんなの絶対に嫌だ。角を曲がった途端、どんっと誰かと正面衝突する。その弾みで、抱えていた教材をどさどさっと落としてしまった。   「わっ、すいません! 大丈夫ですか?」 「は、はい……すいません……」  ぶつかった相手は、大人と呼ぶにはまだ幼い青年だった。私と彼はしゃがみ込み、落とした教材を拾い集める。 「……あっ!」  青年が縁野大学医学部の赤本を見て、喜びと驚きが混じった声を上げた。 「これ、縁野医学部の赤本ですよね! オレも同じところ第一志望なんです! あっ、オレ、相生大地(あいおいだいち)って言います! 予備校一年目です!」  青年は何故か自己紹介をしながら、拾った教材を愛想の良い笑顔で私に手渡した。 「えっと……花﨑芽依です……。予備校……二年目……」  私は青年の勢いに押され、続けて自己紹介をした。自分が予備校二年目ということも言ってしまい、彼に引け目を感じる。出来の悪い人間だと思われただろうか。私が恐る恐る相生君を見上げると、彼はきらきらした瞳で私を見下ろしていた。 「じゃあ、花﨑先輩っすね! よろしくお願いします!」  そして、斜め四十五度の綺麗なお辞儀をした。通行人は何事か、と私たちをちらちら見ながら通り過ぎていく。私はそれが恥ずかしくて、教材で顔を覆った。 「せ、先輩なんてそんな……! と、とりあえず、顔あげて……!」 「はい!」  私が頼むと、相生君はまたもや凄い勢いで顔を上げる。  何というか、眩しくて直視できないほどの真っ直ぐさだ。  これからどうしよう、何を言おう……。   気まずい沈黙が流れそうになり、私はあわあわと目線を泳がす。そんな私の様子に気を遣ってくれたのか、相生君は私に質問をした。 「あっ、そうだ。オレ、自習室に行きたいんですけど、場所が分からなくって。花﨑先輩、もし良かったら案内してもらっていいですか?」 「……へっ? あっ、自習室……? い、いいよ……私も自習室に行くところだったから……」 「本当ですか! ありがとうございます!」  相生君は晴れやかな顔で、私にお礼を言った。  私の日常にはない、人の心を照らすような笑顔。  今日は、雨音がなくても勉強できそう。  相生君との出会いに、私は雨が上がるのを感じた。   私と相生君は、自習室で待ち合わせをして勉強するようになった。  いつしか、背景音楽も聴かなくなっていた。   「花﨑先輩は、どうして医学部を目指しているんですか?」  ある日、相生君に聞かれた。  そういえば、私は何で医学部を目指しているんだっけ。  私は両親のことを考えながら、しどろもどろに言葉を紡ぐ。 「えっと……父親が医者で……両親が、縁野の医学部に行くようにって……」  理由を言葉にしていくうちに、何故か喉をぎゅっと絞められるみたいに苦しくなった。続きを言えなくなった私は、それを悟られないよう、相生君に質問を返す。   「あ、相生君は? どうして医学部に行きたいの?」 「オレですか? オレ、昔体が弱くて、よく入院していたんですよ」  今はそんな感じしないでしょ、と相生君は笑いながら頬を掻く。 「まだ小さかったから、とにかく家に帰りたくて。病院でもよく泣いてました。そんなとき、オレを担当していた先生が『必ずお家に帰れるから、先生と一緒に頑張ろう』って励ましてくれたんです。それで、こんなお医者さんになりたいなって思って、医学部に」 「そ、そうなんだ……」  私は、何だか相生君を見ることができなくて視線を落とした。  相生君には、夢がある。目標がある。……自分がある。  私には、何もない。相生君の隣にいることすら許されないような気がした。 「あ、相生君は凄いね……。私なんて、全然駄目」 「そんなことないですよ!」    強くて、優しい否定。  私は驚いて、隣の相生君を見る。彼は、真っ直ぐで真剣な表情をしていた。 「花﨑先輩、誰よりも自習室に籠もって頑張ってるじゃないですか!」 「それは……」  家に帰りたくないだけ。 「それに、今だって諦めずに勉強してる!」 「だって……」  諦めることなんて、許されないから。 「誰かに言われて始めたことでも、頑張ってるのは花﨑先輩自身です!」  頑張っているのは、私自身。  その言葉に、私の中で張り詰めていた何かがぷつっと切れた。  相生君は続ける。 「だから、全然駄目だなんて、言わないでください」  目元がじん、と熱くなる。  何かが溢れそうになって、必死に堪えてみたけど、駄目だった。  溢れたそれは、頬を伝って次から次へと流れ出てくる。  相生君は、涙の雨が止むまで一緒にいてくれた。  一緒に縁野大学に行こう。  私と相生君は気持ちを新たに、勉強に打ち込んだ。相生君と一緒の大学に行きたい。不純かもしれないけど、私にも夢ができた。そのおかげもあってか、私の成績はぐんぐんと伸びていった。 「いやー、さすがに模試は疲れますね! 花﨑先輩、お疲れ様でした!」  秋。模試が終わって、相生君は大きく伸びをする。 「お疲れ様、相生君」   私も相生君につられて、伸びをしながら答えた。  最近は調子も良かったし、模試も良い結果になるんじゃないかな。    模試終わりで頭と体はくたくただったが、心は驚くほど軽かった。 「花﨑先輩、この後どうします? 今日も自習室行きますか?」  相生君の質問に、私は考え込む。正直、今はあまり勉強する気にはなれない。今日ぐらいは、相生君と伸び伸びと過ごしたいものだ。思えば、このとき気が抜けていたのだろう。次の瞬間、私は自分でも信じられないことを口走っていた。 「せっかくだし、ちょっと遊びに行こうよ」 「……え?」 「え……あっ!」  流石の相生君も、私らしくない言葉に面食らったらしい。彼の驚いた表情を見て、私はようやく、自分が何を言ったか理解した。もう手遅れだが、私は慌てて自分の口を塞いで弁明する。 「ち……違うの! これはその、そういうんじゃなくて、えっと、その……」  駄目だ、まともな言葉が出てこない。  自分の顔がどんどん熱くなるのを感じる。どうしよう、どうしよう。 「あ、あの……ごめん……忘れて……」 「い、行きましょう!」 「えっ……」  若干裏返ったような相生君の声にびっくりして、思わず彼の顔を見上げる。相生君の顔は、甘い林檎みたいに真っ赤だった。彼は慌てているのか、早口で続ける。 「む、むしろ行きたいです。せっかく模試も終わったことだし、今日くらいは花﨑先輩と思い出作りしたいです! いや、同じ大学行くんだからこれからも思い出は作れるんですけど、その、予備校生として! ……だ、駄目ですか?」    相生君の熱視線に、私の心臓はどぎまぎした。癖になってしまいそうな高揚感が、体を、脳を支配する。私は、その熱に浮かされるまま相生君に答えた。 「だ、駄目じゃない……! 私も、相生君と遊びたい……!」  私の言葉を聞いて、相生君はほっとしたように笑った。 「やった……! ど、どこに行きましょうか。花﨑先輩の行きたいところ、行きましょう!」 「えっと、えっと……! じゃあ、近くのショッピングモール行きたい……!」 「いいですね! じゃあ、行きましょうか!」  目的地が決まって、私たちは並んで歩き出した。手が触れるか触れないかという、ぎりぎりの距離。その空間がもどかしくて、でもとても心地よかった。何より、相生君が嬉しそうに笑っていることが、私も嬉しかった。  雑談しながらショッピングモールを散策していた最中、私はあるものに目を惹かれる。 「わあ、可愛い……!」  それは、雑貨店の店先に陳列されていた、小さな仙人掌。  私の手のひらに収まってしまうほど、それは本当に小さかった。 「本当だ、可愛いですね! 植物、好きなんですか?」  私の表情がぱあっと明るくなったのが分かったのだろう、相生君は私に問いかける。 「好きかは……よく分からない。けど、この子は可愛いなって思うの」  そういえば、仙人掌は花も咲くんだっけ。  こんな小さな仙人掌から咲く花は、一体どれだけ小さくて愛らしいことだろう。  そんなことを考えていると、相生君はひょいっと、私の手から仙人掌の鉢植えを取る。 「これ、プレゼントさせてください」 「え、そんな、悪いよ……!」 「オレが花﨑先輩にプレゼントしたいんです。仙人掌持ってる先輩、とてもかわ……いや、幸せそうだったし! もし気になるなら、大学生になってもこうやって一緒に遊んでください! じゃ、行ってきます!」  相生君は私の返事も待たずに、レジへと行ってしまった。ちょっと申し訳ないな、と思ったけど、それ以上に私の心は舞い上がった。  大学生になっても、一緒にいていいってことだよね? 相生君。  その後は、二人でベンチに座って休憩した。座った拍子に、私と相生君の肩が触れる。今までだったら、慌てて離れていたかもしれない。でも、今は離れたくないという気持ちの方が強い。相生君も同じなのか、私の顔を見て微笑んだ。やがて私たちは、互いの肩に互いの体を預けるようにして座った。  休憩しながら、仙人掌の育て方を二人で調べる。水やりの頻度や根腐れしたときの対処法、仙人掌に適した環境。どんな花が咲くのかは、あえて調べないことにした。 「次の春、花が咲いたときのお楽しみにとっておきましょう!」  今度の春が楽しみだね、と二人で笑い合う。私が、春を待ち遠しく思う日が来るなんて。私は自分で自分のことが信じられなくて、でも、その変化が嬉しくも感じた。 「帰りは送らせてください!」  相生君はそう言って、私を駅まで送ってくれた。離れてしまうのが名残惜しくて、ついつい歩幅が小さくなってしまう。そんな私の歩みに、相生君は合わせてくれた。どんなに頑張って引き延ばしても、幸せすぎる時間には終わりが訪れる。 「今日はありがとう。相生君と遊べて、とても楽しかった。仙人掌、ちゃんとお世話するね」  もっと一緒にいたかった。  そんな気持ちを押し込めながら、私は相生君にお礼を言った。  一方、相生君は何か言いたげな表情で頬を掻いている。 「相生君……?」  私、何かしてしまったのかな。そう思って、相生君に声をかける。  すると、彼は意を決したような顔になった。相生君は、紅潮した頬で私の顔を真っ直ぐ見る。 「オレも、花﨑先輩と一緒に過ごせて楽しかったです。ねえ、花﨑先輩。オレたち、今受験生だから、その……勉強が第一だと思います。でも、二人で縁野大学に合格して……一緒に春を迎えたら! そのときは、オレと……」  と、ここまで言いかけて、相生君はぐっと口を結んだ。 「いや……この先は、オレが合格したときに言います。だから、待っててください。花﨑先輩」 「……うん。私も、受験勉強頑張るよ。私が合格したら、私の話も聞いてね、相生君」    私たちは、こうして次の春を誓い合った。  これからも励まし合って受験を乗り切ろう。そう言葉を交わし、連絡先を交換する。  私は、相生君の背中が見えなくなるまで彼を見送った。別に、これが今生の別れじゃない。明日も予備校で会えるんだ。私は自分をそう納得させて、駅の改札をくぐった。 「ただいま」  私は浮かれた気持ちを悟られないよう、顔に無表情の仮面を貼り付けて家に入る。このまま、いつも通り部屋に戻れば大丈夫。そのはずだったのに。 「芽依、こっちに来なさい」  母親の、怒気を孕んだ声がリビングから聞こえた。普段の苛々した声色じゃない。最近は成績も良かったのに、どうして。私は冷や水を浴びせられた気分で、恐る恐るリビングへと向かった。リビングに入った私を見て、母親はスマホの画面を見せつけてくる。 「これは、一体どういうこと?」  そこには、仙人掌を見つめる私と相生君が映っていた。  ひゅっと血の気が失せる。  母親に、見られていたのだ。   「こ、この人は、予備校の友達で……」  私は震える声で、何とか口を動かす。だが、友達という言葉を聞いた瞬間、母親はぐわっと般若の形相になった。 「友達? そんなわけないでしょ! 芽依、貴方自分がどういう状況か分かっているの? 二浪目なのよ! もう後がないの、分かっているでしょう! いつの間に遊べるほど賢くなったの!」 「で、でも、最近は成績上がって……」 「だから何? 結局は縁野に合格しなきゃ意味ないじゃない! こんなことなら、予備校なんて行かせるんじゃなかった!」  私の視界に入ったのは、振り上げられた母親の手。  次の瞬間、頬に痛みを感じる。  平手打ちをされた。  私はあまりの衝撃に倒れ込む。口の中が切れたのか、吐き気を催す血の味がした。怒られたことはたくさんあったけど、叩かれたのは初めてだ。私は信じられなくて、ただ呆然と母親を見上げた。  母親は私を叩いて少し落ち着いたのか、ふう、と肩で息をする。そして、平手打ちよりも信じられないことを口にした。 「芽依、貴方、もう家から出さないから。予備校も辞めるように手続きをするわよ。スマホも没収します」 「え……」  母親は、倒れ込んだ私に手を出した。 「ほら、早くスマホを出しなさい」  ここで親に従うことが当然だとでも言うように、母親は私を促す。 「……嫌だ」 「何ですって?」  脳裏に、相生君の眩しい笑顔が浮かんだ。   「予備校、やめたくないです……! スマホも、渡しません……!」  ばちん!  リビングに、平手打ちの音が響き渡った。  次の日から、私の監禁生活は始まった。部屋から許可なく出ることは許されない。母親はしきりに部屋を訪れ、私が勉強しているか確認しに来た。 「また間違えてるじゃない! もっと本気で勉強しなさい!」  怒号の次には平手打ち。私の顔は、腕は、瞬く間に痣だらけになった。母親の度を超えた躾を見ても、父親は何も言わない。  地獄のような日々でも、相生君にもらった仙人掌を見ている間はほんの少し心が安らいだ。やがて、私がよく仙人掌を眺めていることに気づいたのだろう。母親は私の部屋に来る度、仙人掌に陰雨の如く水をやるようになった。 「……仙人掌に、そこまで水やりはいらないです」  私がそう言うと、母親はわざとらしくにっこりと笑って答えるのだ。 「あら。愛情なんて、いくらあげてもいいじゃない」   この生活も愛情だと言わんばかりの表情に、私は何かが冷めていくのを感じた。  こうなったら、縁野大学に合格するしかない。  私は、怒りも恐怖も孤独も、全てを力に変えるように勉強した。相生君にもう一度会うために。相生君に、自分の気持ちを伝えるために。痛む体に文字通り鞭打って、私は受験までの残り少ない日々を過ごした。  そして訪れた、縁野大学医学部の受験日。 「試験が終わったら、すぐにここに戻ってきなさい」  母親は私を受験会場に放り出し、去って行った。  私は母親が見えなくなったのを見計らって、辺りを見渡す。もしかしたら、相生君に会えるかもしれない。そんな期待を胸に、私は彼を探した。結論から言うと……相生君は、見つからなかった。    ひょっとして、志望校を変えてしまったのだろうか。  私は、最悪な可能性に思い至ってしまった。  私たち、暖かい春を誓い合ったのに。  それだけを胸にここまで生き抜いてきたのに!  一度抱いた疑念は、簡単に晴れることはない。  相生君に裏切られたかもしれない。そんな恐怖に手を震わせながら、私はやっとのことで受験番号を記入した。    不合格。    散々叩かれた後、私は部屋に押し込められた。その直後、両親が汚く罵り合う声が扉越しに聞こえてくる。  でも、そんなことどうだっていい。  何もかもが終わった。希望も、不安も、何もかも。  私は窓際の仙人掌に近づく。受け止めきれない愛情を浴びた仙人掌の根元は、根腐れしてぶよぶよと柔らかくなっていた。  何だか、私みたい。  ふと、そう思った。  両親が押しつけてくる愛情という雨の中、晒され続けた私。  歪んだ環境の中、根っこまで腐って相生君を信じられなくなった私。  花開くはずだった春を、迎えられなかった私。  仙人掌が根腐れしたら、どうすれば良かったんだっけ。  私はうつろな頭で、幸せだったあの時間を思い出した。  ああ、そうだ。まずはこれが必要だ。  私は机の引き出しからカッターナイフを取り出す。  きちきちきち。  私は雨上がりを求めて、扉の方向を向いた。     雨中の仙人掌 完
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