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渇求1
お綺麗な顔、引き締まった身体、上等そうなスーツ。よく行く大衆酒場に現れたそいつは、明らかに浮いていた。…BARで呑めよ、と内心思っていたが、口には出さなかった。何故ならそいつは、俺からすればベッドを共にしたいと思うような男、だったからである。相席になったことを幸運だと思い、ずかずかと踏み入った質問をした。生い立ちを聞けば、愛のない家庭で育ったことが分かり、それに対して持論を述べた。無関心はもはや暴力だ。心に触れられないで育つのと、たとえ傷つけられたとしても、心に触れられた経験があるのでは、物事のとらえ方が違ってくる。人の傷に気づけるようになったとしても、それが優しさに繋がるとは限らない、とも言った。だから、結果的に小指を失くすことになったのだと。 間違いなくノンケだろうと、確信しながらあからさまに誘えば、まさかのOK。相手につられて、己の話をし過ぎたことを誤魔化すように、半身で決行したモーションは、予想を裏切り成功をおさめたのだった。
『……死のうかと思っていたんです』
彼の家に着いて、まさに事に及ぼうとした時に、彼が放った科白だ。場にそぐわぬ発言だったが、俺はその言葉を聞き、ここに来るまでの彼の振る舞いに合点がいって、すっきりしたのだった。俺の誘いに乗ったってことは、奥底じゃ生を望んでいたのかもしれねえ。こっからまた、イチからやり直しゃあいい。普段の自分なら言わないような実直な言葉が出てきたことで、感じている照れくささを紛らわすように、茶化して誘った。彼との行為を進めるうち、人に物を教えるという行為は、これほどに濃密なものなのかと、まざまざと感じた。奇しくも育てるという行為に、とても類似しているとも思った。いま思い返せば、距離感が狂っていたのだと分かる。───行きずりの域を越えて、心を交わしてしまったのが、この状況を招いた、大きな要因だったのかもしれない。
「…おい、今ならまだ間に合うぞ。これ外せ」
「それは出来かねます」
まさか、俺の身の上を知ってなお、こんな暴挙に出るなんて思わないだろ。だって数時間前まではストレートだった男が、こんな真似。ベッドの柵に繋がった手錠を外せないかと、再度腕に力を入れるが外れる気配はない。俺が足掻いている間に、クローゼットの中の箱から、革の長いリードと、スタンガンを出す彼に思わず、お前の元カノは何者だったんだ、とため息混じりで問うた。SMの女王様を生業としていた、と事も無げに彼は返す。そりゃあ束縛に向いた道具が、ぽんぽん出てきてもおかしくないな、と乾いた笑いがもれた。さて。どうしたもんか。現役の時だって、こんなピンチには出くわさなかった。何故なら、常に気を張っていたからだ。随分と鈍ったものだな。死を覚悟した人間が、どんな行動に出るかは、予測が出来ないと、警戒しなければならないと、知っていたはずなのに。
「食事と排泄の時は呼んで下さい。…後々手錠をステンレス製のものに変えますね。変えるまでは、入浴は遠慮していただきます…すみません。」
「…おい。何するつもりだ。」
「PCで調べ物と通販です。」
…俺の監禁に関しては、衝動的にやったと明白だが、臨機応変にいまやるべきことは、こなしていくつもりらしい。何とも冷静に見えるのは、監禁は犯罪だ、という罪悪感がないからだろう。どうあっても保身には走りそうにない。これは下手な筋者に捕まるより、厄介だと確信した瞬間だった。それから二時間ほど経って、寝室のドアが開く。彼は料理が乗った、トレーを片手に持っている。
「ご飯です」
明日からは、三食作るようにしますね。そう言いながら、ナイトテーブルにトレーを置いて、手際よく右手でスタンガンを向けながら、左手で片方の手錠を外し、俺が身体を起こすのを待って、再度はめた。鎖部分にリードをつけ、持ち手を手首に通すと、ウェットティッシュで手を拭き、箸を持つ。どうやら食べさせる気らしかった。
「…自分で食べるって選択肢はないのかよ」
「箸も武器になりそうだな、と思ったので申し訳ないですが」
まあ、そうなるよな。大人しく諦めて、口を開く。身体は空腹を訴えていた。人から食べさせてもらうのは、いつぶりだろうか。きっと幼児期以来…大人になってからは初めてだ。少し手間取りながら、おかずとご飯を交互に差し出す彼を見る。…これから視界に映る人間は、この男だけなんだろう。ここを出るまでは、ずっと。これから先この空間で出来ることなど、限られている。彼と話すか、自問自答か、脱出作戦を考えることくらいだ。最初こそ拙かった彼の食を与える手つきは、徐々に無駄がなくなり、後半にはコツを掴んだようだった。最後のひとくちを舌で味わう。とても美味しいわけではないが、男の料理にしては繊細だと思った。
「ごちそうさん」
自然と出た感謝の言葉。はい、と返答する彼の眼は、心なしか柔らかいように見えた。こんな場面なのに緊張感がねえなあ、とそんな自分に対して、思わず口角が上がりそうになり、すんでのところで抑える。緩んでしまってはだめだ。ある程度は気を引き締めていなければ。この場所から抜け出さないと、あいつが組に押しかけるかもしれない。それは何としても避けたい。屈託なく笑う男の顔を思い浮かべながら、そう自分に言い聞かせた。
「トイレに行きてえんだけど」
トレーを持っていこうとしている彼に、生理現象を訴える。まさかオムツなんて言い出さねえよな?と続けて問えば、それも考えましたが…普通に済ませてくれる間は、やめておこうと思います。まるで脅しのようだが、違う。双方の主張に相違があればそうすると、提示しただけなのだろう。トレーを再度ナイトテーブルに置き、俺に手を貸す。その手をすんなりとって、大人しくついていく。トイレに入ると手錠を外してくれる。排泄を済ませて手を洗い出ると、両手首を差し出す。無駄に体力を消耗するのは、得策じゃない。ありがとうございます、と協力的なことに対して彼は軽く礼を言って、手錠をはめる。数日は様子を見るか。隙が生まれやすい瞬間を狙って、成功率を高めなければ。一度失敗すれば次の脱出の機会は、何年先になるか分からない。
「夕食の買い出しに行ってきます」
寝室へ戻り、ベッド柵に手錠をはめ直しながら、そう言った。食べたいものはありますか、と彼は聞く。すぐに思い浮かんだカツ丼というメニューをそのまま伝えれば、分かりました、と簡潔な返答。苦手なものはありませんか、と続けて問われ、特には、と返す。では行ってきます、と先ほど下げるはずだったトレーを持って、彼は寝室を出て行く。どんな状況下に置かれていても、時間は過ぎて。始まったばかりの彼との生活も、そう遠くない先で馴染むんだろうと、彼の後ろ姿がドアの向こうに消えてゆくのを、視界におさめながらそう思った。
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