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渇求2
静まり返る寝室で、深く息を吐く。こんなに時間が有り余っていると、否が応でも自分を見返してしまう。深く探ったところで、ほとんどは色のない酷く白黒の記憶ばかりで。色づくのはあの男と出逢ってからの日々だけだ。鮮明に蘇ってゆく記憶に眉をひそめる。居どころのない家、身の内で破裂しそうなほど膨れ上がった、どうしようもない感情を、喧嘩に明け暮れることで外に逃がしていた少年期。動かなくなった身体を引きずって帰ると、よく母親の男に怒鳴られ何発かお見舞いされた。気が済んだ男は出て行く。男の気配が完全に消えると母親が駆け寄ってきて、抱き起こし手当てをしてくれる。そんな時に決まって母親は泣きながら謝った。なあ。なんで俺が喧嘩するか知ってるか。アンタがこの世で一番愛してるあの男、手に掛けねえようになんだぜ。青臭いあの頃の俺は、そんなふうに心の中で思っていた。喧嘩の腕を買われ、スカウトで組に入った俺は、順当に出世していき、気がつけば幹部になっていた。何の不自由もなく、ただ日々を過ごしていた俺の前に、債務者として現れたあの男は、変わったやつだった。
『えーと…おく、せって言ったか?アンタ…馬鹿だなあ』
奧世。俺が生きてきた中で、一番繰り返し呼んだ名前だろう。最初に会ったこの時は、一緒に商売するような、長い付き合いになるとは勿論思っていなかった。友達の連帯保証人になり、その友人に逃げられた奧世は、馬鹿正直に借金を返済しに来ていた。俺に馬鹿だと言われても、あっけらかんとそうだな、と返して
『でも、信じるっていうのはそういうことだろ。色んなこと覚悟してやるもんだ。』
と続けて笑った。こんな世の中で、そんな生き方は損するだけだぞ。思わず出た俺のその言葉に、ますます笑って、損したかどうかは死ぬ時分かることだ、と俺の肩をたたいた。ぎょっとした顔を浮かべる、周りの舎弟達など気にする素振りもなく、終始そんな調子で俺に接していた奧世はその二年後、見事完済してみせたのだ。組に来る度持ち前の明るさで、呑みに誘う奧世に気まぐれで頷いてから続いている奇妙な組員と債務者の関係は、支払いが済んで組と関わる理由がなくなっても、当たり前のように終わらせる気はないらしかった。奧世と呑みに行くのが日常の一部になった頃、昔から雇っている探偵から、連絡が来た。日程を決め馴染みの喫茶店で、と電話を切ってから思った。いつもよりもスパンが短い。まだ前回の定期報告から、二ヶ月しか経っていない。胸のざわつきを抑えながら、仕事をこなしその日を待った。当日、店内でふてぶてしく足を組み、ミックスジュースを飲む探偵が待っていて、俺に気づくと手を振った。いかにも無糖のコーヒーを好みそうな外見で、苦いものが苦手なんだそうだ。たわいない世間話の先で、神妙な顔をした探偵が、静かに本題を切り出した。
『大病だそうだ。生存確率は35%…本人から聞いた話だから間違いない……おい、怖い顔すんなって』
見張ってたら
ぶっ倒れたとこに居合わせたんだよ。
『そんで一緒に病院付き添って、流れで病室で話聞くことになったから知ってんだよ。別に接触なんてするつもりなかったからな。』
…この道に入ってから、意図的に母親との連絡を絶った。弱味だと気づかれないためだ。それでも心配だった俺は、金の無い舎弟の時からこの探偵を雇っていた。幹部だった俺を目の前にしても、尊大な態度なのはそういう訳だ。…母親の男は事故で亡くなっていて、母親の身寄りは俺しかいない。初めて極道になったことを悔いた。…どうすれば。端的に助けてくれたことに対する礼を言い、報酬を手渡すとそのまま喫茶店を出た。当てどなく歩いていると、ぶるりと携帯がふるえた。奧世からのメールだった。今日の夜、呑みに行かないか?そのシンプルな内容に、承諾で返すと少し落ち着いた気がした。夜がふけきる前の通い馴れた呑み屋街の、待ち合わせ場所に現れたあいつの顔を見て安心した自分に驚いた。
『繋子』
ああ、こいつの声…こんなに耳に馴染んでたのか。この時がはっきりと心が緩んだ、最初の瞬間だった。そんな心中のまま酒が入って母親の話をした。…何となくではなく、確信があった。手を差し伸べてくれるんだろうと。俺で良ければ仲介役になると言ってくれた。…ただひとつ、条件があると。
『お前だってことは隠すな。』
それだけ聞いてくれるんなら、俺は何でもやるよ。その言葉に、震えた。動いてしまったが最後、止めることは出来ない心の奥深くを掴まれた、あのどうしようもない感覚は、痛いとも切ないとも甘いとも形容し難い。この先、きっと。邪険に出来ないと分かってて、母親とのことに巻き込んだことを後悔する時が、絶対にやってくるんだろうと彼がかけてくれた言葉の数々を、強く噛みしめながら思った。俺の話を聞いてからの、奧世の行動は早かった。母親との関係を築き、俺達親子の橋渡しを、母親が危篤になるその日まで引き受けてくれた。…この男がいなければ、こんな穏やかな形で、母親の死に目には会えなかっただろう。俺と母親だけで行うつもりだった葬儀に、俺を押し切って参列してくれた奧世の背中を、見つめながら想った。もう、こんな気持ちは誰にも抱かない。こんな…どうしようもない、感情は。
『なあ、繋子。お前ヤクザ向いてねえよ。』
『…幹部にむかって何言ってやがる』
『ほんとにさ、ずっと考えてたんだ。俺と店やらねえか?』
『断る。大体どんな店出す気なんだか』
『Cafe兼服屋。頼まれれば出来ることは何でもやる』
『じゃあ万事屋でいいじゃねえかよ。つーか俺はやらねえぞ』
葬式が終わって、前の様な日常が戻ってきた頃、奧世は呑みの席でしきりに俺を勧誘するようになった。それから半年は断り続けたが、その間に気づいたのだ。堅気になれる機会はこれが最後だと。今までは無かった選択肢と、小指の喪失。双方を天びんにかけた時、俺は前者を選んだ。挨拶回りは中々に至難を極めたが、最終的には若頭の鶴の一声で、小指だけで済ませてもらえるようになった。この親不孝者め、と再三渋い顔をされたが、有望な後釜候補を育成していた事と、俺不在でもちゃんと機能するように土壌を整えていた事で、後腐れなく組を抜けられることと相成った。もちろん、二度と関わることはしないとも誓った。組の門をくぐる時、まるで塀から娑婆に出た人間のように、太陽が眩しく感じられたのを今でも覚えている。…外で眉を下げて待っていた奧世の姿も。
『おつかれさん』
随分優しくその声が響くもんだから、たった一挙に都度反応するなんて、と深い深い溜息が出たのだ。下手すりゃ10代のガキより青かったんじゃないか。…色づき通しだった奧世との日々で、心に誓ったことがある。アイツに、想いは告げない。母親との本懐を遂げられただけではなく、堅気になれる機会までくれたアイツに、言うべきではないと思った。これ以上は駄目だ。俺に巻き込むのは、ここまでだ。そんな自制から解き放たれたのは、奧世に生涯の相手を紹介された時だ。ああ、そうか。やっとか。少しの切なさとともに、安堵している自分がいた。遅すぎた初恋として…ようやっと踏ん切りをつけることが出来るのだと。
『おめでとさん』
祝いを渡しながら、そう言葉をおくった俺に、心底気の抜けたツラで礼を言った奧世。俺は、一生涯の親友を得たのだ。揺るがぬ繋がりを持てるなんて、こんなに幸せなことはない。自分の今の立ち位置に、不満はひとつも湧かなかった。堅気になって色んなモノから解き放たれた俺は、幹部時代はバレたら厄介だと自重していた、夜の街によく繰り出すようになった。楽しく大勢で呑んだ先で、良さげな相手と一夜を共にする。慣れた人間と、そんなふうに夜を過ごすのは心地が良かった。奧世の幸せを傍目に享受しながら、店を通じて出来た繋がりを大切にしつつ、度々夜を愉しむ。それで満足だった。誰か一人と、なんて感情もうこの先わかねえんじゃねえか。このまま年を取るんだろうな、と平和ボケしていたそんな毎日の末に待っていたのが…今回の監禁事件というわけだ。
「…戻りました」
寝室のドアが開く音と、事件を引き起こした当人の声で、一気に現実へと引き戻される。少しの回想の余韻に包まれながら、目の前の男の顔を視界におさめ、深い溜息が出た。不便はありませんでしたか、と事も無げに聞かれ、寝返りがうてねえ、と恨めしげに言えば、善処します、とこれまたすました顔で、簡潔な返答が返ってきた。
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