煙草の香り

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 幼い頃の私は喘息持ちだった。発作が出ると、胸に砂が詰まったようになり息ができなくなる。このまま死ぬんじゃないかと怖くなり、横になるともっと辛いので、一晩中枕を抱えてテーブルに突っ伏していたものだった。  最後の発作は中学生の時で、それ以後なぜかピタッと治まった。けれどあの苦しさは二度とごめんだ。だから発作を誘発しそうなものは極力避けて生きてきた。特に煙草はいけない。必ずしも煙が発作の引き金になるわけではないが、煙草の匂いがすると私はその場から離れた。  大学生になった私は、駅前のファミレスでウェイトレスのアルバイトを始めた。そこで厨房担当のT君と知り合ったのだ。近くの大学に通う同い年の彼は、涼しい目をした長身のイケメンで、無口でとっつきにくいのにふとした時に優しかった。そのギャップにやられて、私は寝ても覚めてもT君のことが頭から離れなくなった。だが残念なことに、彼からはいつも煙草の香りがした。  T君はアルバイトの女子から人気があった。いけてない私は、キラキラしている女子が積極的に彼に話しかけているのを、ただ遠くから見つめることしかできなかった。 「彼に近づきたい」  その気持ちは日に日に増していった。そんな私が考え出したのが、上がりの時間が同じになるように小細工をすることだった。閉店時間が迫ると、厨房の中をチラ見して、T君の動きに合わせて自分の仕事を早くしたり遅くしたり調節するのだ。更衣室に向かうT君とうまくすれ違えて、「お疲れさま」と短い挨拶を交わすことができたら、心の中でガッツポーズをした。キラキラ女子がいない日は、ほんの短い距離だけれど二人並んで駅まで帰る日もあった。夢のような時間だった。でも、元来無口なT君を相手に緊張のあまりうまく会話が弾まなくて、一人電車の中で何度も溜息をついた。  不思議なことに、T君に夢中になってから、あんなに苦手だった煙草の煙が全く気にならなくなった。T君が微かに纏う煙草の香りを嗅ぐことで、彼が近くにいる現実を噛み締めることができた。嬉しくて、心臓の鼓動が周りに聞こえるほど大きくなり、喘息発作でもないのに胸がキュッと締め付けられた。  私の恋は、T君がバイトを辞めたことであっけなく終わった。同時に私の煙草嫌いは見事に復活した。今でも煙草の匂いを察知すると逃げ出すが、ふとT君のことを思い出す。喘息発作の苦しみと引き換えてもそばにいたいと思ったのは、後にも先にもT君ただ一人だけだ。
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