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第7話 伴侶
久方ぶりに、彼は力いっぱい翼を打ち鳴らした。鴉の貧弱なそれではない、彼の本来の姿の、煌めく白銀の鱗に覆われ、皮膜で風を捉えて飛ぶ大いなる翼だ。
同時に、雷鳴のごとく空気を震わせて強く高らかに咆哮する。熱によって脆くなっていた天井はあえなく崩れ、彼の巨体が通るに十分な穴が、冬の曇天を覗かせる。雨霰と振る石や火の粉や木材は、彼の鱗が弾いてくれる。姫の柔肌には傷ひとつつかない。
呆然と佇む姫の衣装をできるだけ優しく咥え、彼の背に放り投げる。鬣にしっかりと指が捕まるのを確かめて、彼は鉤爪を備えた脚で強く床を蹴った。反動で崩れ落ちた建材が炎に呑まれるのを見下ろして、宙に舞う。
「──竜、だと……!?」
「バカな、昔話じゃ──」
姫が館ごと燃え尽きるのを待っていたのだろう、松明を掲げた兵たちが慌てふためくのが愉快だった。──あんな、玩具のような火で彼をどうにかできるものか。
彼が笑うと、牙の間から火が噴いた。燃料など必要としない、彼が思うままに何もかもを燃やす本物の炎だ。久しぶりに本来の姿で飛んだ解放感も手伝って、彼はひとしきり笑い、館を完全に炭と化させた。森を焼くつもりはないから、兵たちは上手く逃れただろう。小物どもなどどうでも良い、奴らを遣わした者を焼いてやろう。
彼は風を切って飛ぶ。どんな鳥よりも高く速く、雲を越えて。人の営みは遥かな下方に、家は玩具のように小さく見えるほど。人にはあり得ない視点に、姫は怯えていないかと背中を窺うが──
「飛んでるわ……!」
歓声を聞いて、彼は上機嫌で身体をくねらせた。もちろん姫を振り落とさないようにごくささやかに、はしゃいだ悲鳴を上げさせるていどに。
そうしてしばらく飛ぶうちに、蟻が集ったように人馬が密集する平野が目に入る。蟻の群れと違うのは、あちこちに刃の煌めきや、誇らかに掲げた旗や紋章の金銀や赤が閃くところ。人が嫌というほど集まって、殺し合いをしようというところだ。娘を燃やすことを命じた王も、彼の視界のどこかに塵のように紛れているはず。
「何を……?」
姫の疑問の呟きに、彼はまた高らかに笑うことで答えた。彼の笑い声は降り注ぐ炎となって地上の人間を襲った。敵味方の区別なく火に追われて、人は入り乱れて逃げ惑う。由緒あるはずの紋章が踏み躙られて泥にまみれる。
「──素敵! もっと!」
戦いどころではない混乱は、姫の気に入ったらしい。はしゃぐ声に励まされて、彼は心行くまで戦場を舞い、炎を吐き続けた。
人の戦を台無しにした後、彼は姫を乗せたままさらに飛び、居心地の良さそうな洞窟を見つけた。竜の姿では入れないから、今度は人の姿に転じる。鴉の時に姫に抱えられていたのとは逆の格好で、人の娘を横抱きにして運びながら、風で乱れた髪が掛かる耳に、囁く。
「お前の歌をずっと聞きたい──ずっと、そう思っていたんだ」
「良いわ、貴方のためなら……」
訳の分からないことの連続だろうに、疲れてもいるだろうに、笑って答えてくれるのが嬉しかった。だが、神の祝福はどうにも邪魔だ。心と裏腹だと分かってはいても、この声で嫌、と言われるのは癇に障る。だから彼は、姫の首筋にそっと歯を立てた。彼女の言葉を捩じれさせる、忌々しい神の恩寵を噛み砕かんと。
「空鳴き姫ではなくしてやる。好きなように歌って、好きなことが言えるように」
どのような姿をしていても、彼の牙は竜の牙だ。鋭く硬く強靭で、何もかもを食らうことができるのだ。とはいえ神の呪いめいた祝福を食い尽くすにはそれなりに時間がかかった。風が吹き寄せた落ち葉の寝床にふたりして横たわって、すべてが終わるまでに彼らは多くのことを語り合い、互いの名を知った。
「一緒にいてくれるか、ティジアーナ?」
「ええ、────」
姫に名を呼ばれた瞬間に、噛み砕いたばかりのとは違う種類の鎖が生まれたのを彼は感じた。彼と彼女を繋ぐ、不可視の、けれど決して切れない鎖。そういえば、竜の名前は魂を縛る呪でもあったような。瞬きほどの短い生の人の子に、彼は添い遂げる定めとなったらしい。──だが、それもどうでも良いことだろう。彼女の歌を、最期まで聞くことができるなら。
「歌ってくれよ、我が妻よ」
「ええ……!」
早く新しい塒を見つけなければ、とは思うのだが。伴侶に言葉で強請ることができるのが楽しくて、つい動くことができないまま──洞窟の中では、美しい歌声がいつまでも響いていた。
ひとつの国が不可解に滅びた話は、風よりも早く人の世界を駆け巡った。神の加護によって栄えた国は、何かしらの罪を犯してその加護を失ったらしい。戦場を焼き尽くした白い竜は、神の怒りの表れだ。いや、竜は神さえ食らう恐るべき邪悪の化身なのだ。かの国の王は、竜を手なずけようとして失敗したのだ。あるいは、その試みによって神の怒りを買ったのだ。
誰もが真偽を確かめようもない噂を語るのに夢中になっていたから、とある国のとある町外れにひと組の夫婦が居ついたことに気付くものはいなかった。珍しい白髪紅目の夫と、黒髪青目のたおやかな新妻。いつのまにかそこにいたその夫婦は、とはいえ見目良く仲睦まじかったので、すぐに周囲に溶け込んだ。やがて夫婦の間には子供も恵まれ、幸せな一家が団欒する様に町の者たちも目を細めた。
美しい妻は歌声も美しく、どんな鳥の囀りよりも見事なものだと評判だった。母になったからには、何よりもまず子守のための歌なのだろうが──揺りかごで眠る赤子や駆けることを覚え始めた幼子よりも、父であるはずの夫こそが、もっとも良く歌が聞こえる位置を占めて譲らなかった。それはまるで、夫が一番大きく一番手が掛かる子供のようで。その姿もまた、夫婦が親しまれる理由になったのだった。
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