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第1話 歌声
最初にその歌を聞いた時、彼は住処の森に知らない鳥が迷い込んで来たのだと思った。
美しく澄んだ旋律で、けれどどこか寂しげで。応える声もない孤独な歌は、求愛や水場を教えるための囀りではないようだった。同胞がいないはぐれ鳥、人の鳥籠から逃げ出したか弱い小鳥──そんな姿を思い浮かべて、彼は様子を見ようと考えた。
たぶん、ちょうど退屈していたところだったのだろう。面倒を避けて姿を隠して、数百何だかが経ったところだったから。暇潰しに仲間の群れを探したり、何なら人の街まで送ってやったりしても良いとか、そんなことを考えて。
小鳥を驚かせないために、彼はさほど大きくない同族の姿を取ってやった。鷹でも鷲でも梟でもなく、鴉ていどが良いだろう、と。彼が化けると何であっても白い色になってしまうのが怪しいかもしれないが、まあ取って食う気はないと示せば大丈夫だろう。
思い返せば、呆れるほどの気遣いだった。
柄にもないことを思いついてしまったのは、その声がそれだけ耳に心地良かったからだ。
木々の葉を透かす木漏れ日、土と水の香を含んだそよ風、蕾から開いたばかりの花弁のみずみずしさと柔らかさ、そんな麗らかな光景のすべてを音にしたような伸びやかな声、流れる旋律。
それを紡ぐのはどんな鳥なのかと、ひと目見ておこうと思ったのだ。そう、彼はあくまでも鳥を見に行くつもりだったのだ。
「あら──」
だから声を辿ってたどり着いた空き地にいたのが人の娘で、彼は不覚にも驚いた。鳥の翼を操ることも一瞬だけ忘れてしまって、無様に堕ちかけて慌てて大きく羽ばたきする。
宙に舞う白い羽根がその娘の白い顔を彩る。麓で見かける村娘とはまるで違う、その娘の肌は新雪のごとく滑らかで、漆黒の髪は本物の鴉の濡れ羽にも劣らぬ艶やかさ。彼を捉える目は空の色で──それが大きく見開かれて、あの歌を歌っていたであろう紅い唇が、動く。
「あなた、汚い鳥ね」
心外極まりない評に、彼は今度は怒りによって大きく強く翼を打ち鳴らした。何たる暴言。そこらの鴉ならともかく、雪よりも白い羽根に紅玉の目、どんな姿をとっても彼は美しいはずだ。しかも、娘の無礼は一度では済まなかった。
「あっちへ行って。私、ひとりでいたいのよ」
翼と同じく白い彼の嘴から、怒りの一声が響いた。多少なりとも心配して見に来てやったのにこの言いよう! 憤然と、彼はひと飛びして娘の肩に鋭い爪を食い込ませた。
娘が纏っている布切れもまた、そこらの村娘とはまるで違う。蜘蛛の糸で織ったように薄く、咲き初めの花びらよりも柔らかな布地はきっと人の世では価値のあるものだ。それに思い切り穴を空けてやりながら、彼は無礼な娘の頭を突いた。
もちろん、か弱い人の子を本気で傷つけようというのではない。あくまでも抗議の意を込めてのことだ。この娘の悲鳴を聞けば、留飲も下がるだろうと思ってのこと──なのに、彼の意に反して、娘は軽やかに声を立てて笑った。彼を惹きつけたのと同じ涼しげな声が笑うのは、不覚にも耳に心地良い響きだった。
「鳥には私の言うことが分かるのね。嫌だわ……!」
娘が細い指先を伸ばして、彼の首のあたりの羽毛を優しく逆立てた。それもまた無作法なはずなのに、彼の怒りは良いように宥められてしまう。本物の鳥のようにとろりと目を細めかけて──そして、彼は初めておかしい、と思った。
確かに彼は人の言葉くらい解するが、この娘はそれを知るまい。あっちへ行けと言われて飛び込んでいったのだから、娘にしてみれば彼は言葉を分かっていない訳で。しかも、嫌だと言いながら娘は嬉しそうに笑っている訳で。
この娘はいったい何なのか。どうして小鳥のように歌い、訳の分からないことを言って笑うのか。そもそも、美しく着飾った人の娘が山奥にひとりでいるのも奇妙なことだ。それに、どうしてこの娘に撫でられると心地良いのか。
苛立ちも不審もあっさりと鎮められてしまって、再び詞のない旋律を歌い始めた娘の声を間近に聞きながら──彼は、久しぶりに人里に降りなければならないと考え始めていた。
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