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救護室へと運ばれたグリングは、粗末な絨毯の上に横たわっていた。洗濯された感じのしない汗や血の混じった絨毯の強烈な臭いにアレンは顔をしかませた。
「……悪かった」
目を瞑ったままのグリングの右手が伸びて宙をつかむ。意識を失ったままだが、うなされているように唸り声を発した。
戦いの後、自力で立つこともままならないグリングの身体はギルド員に固い石床を引き摺られるように運ばれて救護室へと投げ込まれた。救護室にはその名前らしく包帯や布など治療道具は一式揃っているが、グリングに治療が施されることはなく、ただそのときが来るまで寝かせているだけだった。
「すまない……本当だ……」
急に息が荒くなる。何かを求めているように腕が忙しなく動く。何か──過去の何かに対して詫びているのだろうとアレンは思った。奴隷の身分に落とされる理由は様々だ。ただ、大抵は碌でもない理由だった。
生き残った奴隷たちは皆、グリングの顔を見にきた。来なかったのはヴィポくらいで、試合が終われば皆同じ奴隷の身分だ。いつ親しい人間がこうなるかわからないし、明日には自分が同じ目に遭っているかもしれない。何の示し合わせもなかったが、誰も彼もがグリングの最期を見て、そして一人一人部屋を後にした。残ったのは、アレンただ一人だ。
グリングは闘技場に放り込まれたアレンを10年間ずっと育ててくれた。戦いの手ほどきを教え、試合においても常に気にかけ守ってくれた。生き抜くために極力他人との交流を避けていたアレンもグリングだけは信用していた。
ふいに、共に読書をしていた記憶が蘇る。グリングの部屋、たくさんの本棚に囲まれてグリングは何かの分厚い専門書を、アレンは絵本を読んでいた。記憶と同時に胸に灯ったのは、久しく感じたことがない安らぎだ。
【盤上の目】を閃くまで、前世の記憶を思い出すまでは常にグリングと共に過ごしていた。育ての親──という言葉が自然とアレンの脳裏に浮かぶ。
コボルトは、他の種族と比べて情に厚い種族だ。犬と同じように一度懐けばいつまでも変わらぬ親愛を示し続ける。
(だからと言って。生き逃げるんじゃなかったのかよ)
それはグリングの口癖のようなものだった。初めてナイフを持ったときに、グリングが話した言葉、試合の度に伝えてきた言葉、耳にタコができるほど聞いた言葉が何度も反芻される。
うなされていたグリングの目がパチリと開いた。宙を漂っていた瞳はアレンの姿を捉えると一度丸くなり、そしてすぐに細まる。
アレンの名が呼ばれる。ずっと腕を組んでいたアレンは床に足が張り付いたように動くことができなかった。
何も言わないグリングにアレンがどう行動を取るか迷っていると、突如、ドアが乱暴に開かれた。後ろを振り向けば、ヴィポがにやにやとした意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。
「よぉ、なんだまだくたばってねぇのか」
「!」
潰したはずの片目がなぜかもう治癒されている。悪魔にも似た侮蔑の色を帯びた瞳がグリングとアレンを交互に見やる。
アレンは気づかぬうちに自身の拳を握リ締めていた。
「ヴィポ、何しにここへきた」
「珍しいな。お前が人を睨みつけるなんて。なんだ? くたばり損ないの老犬でも見て泣いてたのか?」
「泣いてなど──」
「いいんだ、アレン」
苦しそうな声がアレンの言葉を止めた。グリングは実に穏やかな笑みをヴィポに向けた。慈愛に満ちた笑顔を。
「ヴィポ。長く戦ってきたが、先に逝くのはやはりオレのようだ」
「当たり前だ。俺は最強。だが、あんたもなかなかに強かった。アレンを助けるなんて馬鹿なことをしなければまだ少しは生きれていたのにな」
フン、と鼻を鳴らしたヴィポは、アレンに視線を移すと「借りは今度、返してもらうからな」と低い声で脅すと部屋を出ていく。
「アレン」
もう一度名前を呼ばれてアレンは振り返った。2人しかいない静寂に、グリングの声が響く。
「……本だ」
「本?」
「ああ、全部お前に預ける。相当な数だ。難解な物も多い。全て読み終わるまで何年とかかるか。……いいか、だから、だから──最後まで、生き逃げろ」
グリングはそう言うと皺だらけになった目をゆっくりと閉ざした。
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