波乱含みの盤面

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 大きく息を吐く。少し咳き込んでしまったのは、息がほんの僅かの時間止まってしまっていたからだ。 「怖気づいてるのか? 大丈夫だ、そんなもん──」  少女の長い髪の毛がヴィポの拳にぐるぐる巻きつけられ、後ろに引っ張られる。声こそ出さなかったが、端正に整った顔が歪んだ。 「この顔の前じゃ素直になる。うらやましいじゃねぇか。最初にお前のモンになるんだ。ほら、早く来いよ! 殺されたくなければなぁ」  アレンは震えるナイフを両手で持つとなるべく遅く歩みを進めた。アレンの目に映るのは赤いユニットばかり。普段は色のない観客席からもちらほらと赤い色が見えていた。  全員が敵──そのプレッシャーが細い肩に重くのしかかる。今まで何度もくぐり抜けてきた。グリングがいない試合では、アレンは一人で立ち回るしかなかったからだ。  今はこれまでの試合とは比べ物にならないほど注目を浴びている。ここにいる全員の目がアレンに期待を寄せている。多くの観客が、奴隷がアレンを自分に重ねて、夢想している。少女の顔を身体を汚す様を。  期待に応えなければ終わりだ。観客からは罵声が浴びせられ出来損ないの剣闘士として烙印を押されるだろう。出場回数はさらに少なくなり、ランクも下がり居場所が奪われていく。 (いや、何もできなかった場合は、ヴィポがそれを口実にして俺を殺すのか)  どちらにしても行き先は地獄だと、アレンはぼんやりと考えていた。 「よぉし! 一度そこで止まれ!」  ヴィポの命令に従い足を止めると、少女の澄み切った瞳とぶつかった。髪を掴んでいた灰色の手が腕に回り、後ろ手で縛る形になる。  痛みから解放された少女は言った。 「なんだ、あんたは違うかもと思ったのに、結局他のとおんなじなのね。何よ、黙ったままで! 私が酷い目にあっているのがそんなに楽しい!?」  違う──と否定したくとも唇は乾いて上手く開かなかった。代わりに喉の奥に唾が落ちていく。 「アレン、やれ。やり方がわからないなら教えてやる。キスだ。このうるさい口を無理矢理黙らせろ。それから舌を口の中に捩じ込んで掻き回せばいい」 「穢らわしい! 放しなさい!!」  少女はヴィポの方へ頭を向け睨みつけると、掴まれた腕を必死に動かす。岩のような拳はびくともしなかった。 「やれ、アレン。唇を重ねりゃあとは沸き上がってくる雄の本能に従えばいい。わかるだろ? 好きにしろってことだ」  少女のほとんど八つ裂きにされた服から見える下着姿がアレンの目に飛び込んできた。両の腕が後ろで縛られていることで胸が前へと突き出されている。金色の髪が風に踊る。 (本能に従え? 人間の本能は生への渇望、そして死への恐怖だ)  アレンは一歩を踏み出した。もう、手を伸ばせばその肩に触れそうなほど近くに少女の滑らかな肢体がある。香りすら漂ってきそうな距離。 (こんなのは、こんなのは嫌というほど戦場で見てきた) 「やめなさい! それ以上近付けばもう容赦しないわ!!」  アレンはまた一歩、また一歩と近付いていく。少女の声はもう届いていなかった。アレンの脳裏には転生前の戦場の姿が映し出されていた。悲鳴、死体、夥しい血に無差別な砲撃。 (俺がカメラで撮っていたのはただのフィクションだ。本当の戦争は、何も無い。何もないままに人は死ぬ。呆気なく、人形のように)  少女の声が、ヴィポの笑い声が、会場中に響き渡る不協和音がぐわんぐわんとアレンの鼓膜を揺らした。砲撃を間近で受けたときのように耳鳴りが全ての音を支配する。  アレンは、喚く少女の顎を触るとそれがしやすいように上へ傾けた。再びブルーの瞳を見つめると、一つの記憶が断片的に、だが鮮明に蘇る。 『アラタ──アラタ』  ──大きな瞳が見つめていた。透き通る海のような碧い瞳。太陽の光を集めて輝くような瞳は、力強くアレンの目をじっと見つめている。  ミリナ・ブローヴァ。戦地で共に砲撃に巻き込まれて死んだ少女の名だ。  顎から手を離すとアレンは後退りした。目の前の少女の瞳は、あまりにも生前に見た少女の瞳と瓜二つだったからだ。 「どうした? アレン、やれよ! 面白くもない! 観客がしびれを切らしちまうぜ!!」  ヴィポに言われて観客席へ視線を向けたアレンは、大きく目を見開いた。 「……わかった」  何かを決意したように一つ頷くと、アレンはもう一度少女に近付き顎を持ち上げると、抵抗するのも構わず唇を寄せた。
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