波乱含みの盤面

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「逃げるぞ」  唇が触れる直前、少女の耳元に囁く。 「え?」  少女が問い返したときには事は起こった。強大な爆発音がして、観客席に黒い煙と白い靄が立ち上っている。 「えっ、ちょ……!!」  アレンは少女の腕を引いて走り始めた。予想外の出来事にヴィポの力も緩み、簡単に逃げることに成功した。 「くっそ! おい、アレン、止まれ!!」 (この状況でそう言われて、止まるわけないだろう)  後ろを振り向くこともなく、アレンは走り続ける。闘技場の後方の一マスへ、唯一その場所だけが何の色も塗られていない安全地帯になっていた。 「これを着ろ。汚いがないよりはマシだろう」  安全地帯に辿り着くと自身の羽織っていた汚れた布地のローブを少女の肩にかけた。赤から青へとユニットの色が変わる。味方として認識されたということだ。 「あ、ありがとう……じゃないわよ、一体なに!?」 「おそらくは、魔法だ」  素早くローブを着て下着を隠す少女は「はぁ!?」と素っ頓狂な声を出した。 「俺にもわからない。わからないが、何か大きな攻撃が起きる」  アレンの目が捉えたのは観客席にいる緑色のユニットだった。ヴィポの片目を抉り取った先日の戦いの際にも見えたが、今回はさらに緑色のユニットが少女と同じように青色に変わった。黒色のフードを深く被り顔はよく見えなかったが、突如現れたユニットの攻撃範囲は今までアレンが見たことのないほど広大だった。得体は知れないが青色のユニットであるということはアレンに敵対する者ではない。アレンはスキルと直観を信じて後方へ下がった。 「うぉぉおおおお!!!!」  怒ったヴィポや他の奴隷たちがアレンと少女に向かって走ってくる。半透明の青い移動範囲がみるみるうちに迫ってくる。観客席は試合を見る者、怒り狂う者、爆発に動揺して慌てる者、それぞれが声を張り上げて興奮状態となっていた。 (来る……!)  ただならぬ雰囲気と空気の違いを感じ、アレンは身構えた。  空気を震わすような無機質な高い音が聞こえた。音は一点に収縮し、そして一気に拡散する。 「アレン! 今度こそ殺してやる! はっ、あっ? おい! なんだこれ!!」  拳を振りかざしたヴィポの動きが止まった。剥き出しの裸の足に氷が張っている。 「なっ……何あれ!?」  分厚い氷だ。深い青色の光沢を帯びた氷が突然現れ、ヴィポの丸太のような足を覆っている。 「動かねぇ! アレン、お前の仕業か!? 何しやがった! ああ!? ちょっと待てよ!!!」  氷はまたたく間に面積を広げていく。足元の氷は脚、(もも)、そして上半身へと上っていく。  現象が起こったのはヴィポだけではなかった。フィールドにいるアレンと少女以外の奴隷たちが同様に氷漬けにされていく。 「おい! 何だよ! やめろ! やめ──」  苦悶の声すらもすぐに氷に呑まれついには身体全体が氷に覆われてしまった。 「なに? どうしてこんな……?」  動き出そうとした少女の手を掴むと、アレンは自分の側へと引き寄せる。 「ちょ、何よ、急に!!」 「動くな、まだ終わっていない」  感じたのは身震いするほどの寒気だった。反射的に腕を顔の前に翳すと、暴風が吹き荒れる。 (ただの風じゃない。これは──吹雪だ)  フィールドの上を強烈な地吹雪が襲った。奴隷たちも観客席も真白に覆い尽くす吹雪は数秒間暴れ回り、そしてどこかに吸い込まれるように唐突に消え去った。  後に残ったのは芸術のような苦悶の表情を浮かべた奴隷たちの氷像と、観客たちの叫び声。 「リージョン魔法だ!!!」  誰かがそう叫ぶや否や観客たちは我先にと出口に向かって逃げ出した。 「どうするの!? これじゃ私達も!」  少女が腕を揺らす中、アレンは目を細めて最初に観客席に起きた爆発箇所を見ていた。薄くなった煙の先には、大きな穴が開いていてそこから外の、白い日の光が見えている。 (あそこだ。あそこに行けば外に……だが)  アレンは闘技場に目を向けた。氷に閉ざされたヴィポが憤怒の表情でアレンを睨みつけている。  生き逃げる。そのためには、ここに留まった方がある意味で安全だった。強い者に逆らわなければ、上から与えられた劣悪な環境でも生きていくことだけは保障される。『盤上の目』があればなおさら。ただ奴隷として生きるだけなら、何もしなければここでいいのだ。 「エミリア」  青い瞳が瞬いた。 「……何だ?」 「私の名よ。あなたは?」  力強い眼差し。どんな状況に置かれても、どんな理不尽な目に遭っても、自由を求めて抗おうとする意志を感じる瞳。 「アレンだ。行くぞ」  アレンはエミリアの手を強く握ると、混乱に乗じて外の光の下へと駆け抜けていった。
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