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彼への気持ち
定時になっても黒瀬さんは部屋から出てこなかった。
私はパソコンの電源を切り、池戸さんに挨拶をして、帰宅した。
部屋のソファーに座って、ぼんやりする。
涙は出ない。
ただ、頭の中が空虚でむなしかった。
「好きだったのに……」
ぽつりと言葉が漏れ出た。
自分の気持ちを言語化することができなかったけど、こうなって初めて彼への気持ちに名前がついてしまう。恋だった。そして、それを失った。
「なによ。やっぱり悪い男だったわ」
怒りをかきたてようとしたけれど、うまくいかず、目を伏せた。
黒瀬さんから土曜の夜にスマートフォンにメッセージが来た。
『昨日はすまなかった』とだけ。
セフレにあれこれ弁解する必要もないということかと乾いた笑みを浮かべる。
どう返そうかと悩んだけど、返す必要もないかと思い、画面を消した。
どうにか土日をやり過ごし、月曜日が来た。
黒瀬さんに会いたくないけど、仕事だし、行くしかない。
部長に言って、今の基本計画が終わったら、誰かと交代してもらおうと思う。
このまま一緒に働き続けるのはつらい。
心を殺して、なんでもないふりをして出勤した。
「おはようございます」
「おはよう」
挨拶をすると、黒瀬さんはなにごともなかったように挨拶を返した。それとなく目を逸らし、池戸さんに声をかける。
「池戸さん、おはようございます」
「おはよー。今日も張り切っていこう!」
週末にいいことでもあったのか、池戸さんは元気だった。
パソコンを立ち上げる。
幸い、やることはいっぱいあった。
今日は打ち合わせもないから、黒瀬さんとのやり取りもない。
仕事に集中しているほうが気が紛れた。
定時になった瞬間に、池戸さんが立ち上がった。
「今日は彼女と待ち合わせなんで、帰ります! お先で~す」
黒瀬さんと二人きりになりたくない私も急いで片づけをして帰ろうとする。
カバンを持ったところで呼びかけられた。
「瑞希」
いつの間にか、黒瀬さんがそばに来ていた。
私は目を合わせず、会釈して横をすり抜けようとした。
「私も用があるので、これで失礼――」
「瑞希。なにがあった?」
腕を掴まれ、引き留められる。
その手をそっと外して、「なにもありません」とつぶやく。
彼に背を向けたとき、後ろからなおも話しかけられ、つい立ち止まってしまう。
「設計するときには――」
設計と聞いて、思わず耳を傾けてしまったのだ。
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