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変わらぬものなど、この世には存在しない。 駅前のコンビニ、居座り続けた長寿番組、 彼奴の前髪、インディーズバンドの曲調、エトセトラ。 敢えて触れるのであれば、この組み敷かれた 空という不可思議な現象のもとでしか 僕たちは生きることが出来ないということ。 不変的な象徴はただそれくらいではないだろうか。  ノイズキャンセリングが突如終焉を迎えた末、手のひらに収まる小さなディスプレイのなかで光るたった一つのアプリを何気ないルーティンで開き、不確かな速度で流れゆくタイムラインを追いかけると、僕は生きている気がした。 もう会えない人、二度と出会えない今年の桜。その隙間から睨みをきかせる欠け落ちた月。来年も再来年も同じように咲くだなんてものは明らかなる幻想だ。もう二度と咲くことは出来ない。今、桃色のネオンに照らされた桜坂の花弁どもは、たった数日で消え落ち黒に染まる。尖った靴の踵で踏み躙られて、雨に打たれ、いつの間にか塵として廃棄される。来年は姿を変えた、見知らぬ花弁が私のフリをして生まれ落ちるのだ。   @unknownam2 雨だった。天気予報は外れた。悪くない。    僕はタイムラインの端で、夜中の二時を待つ。翌日六時起きであろうがなんだろうが、二時を待った。彼女なのか彼なのか、検討もつかない誰かのツイートを、僕は毎日待っている。空という現象あるいは対象物の支配下で生きる程度しか変わらぬものはありえないのだと信じてやまなかった僕が、初めて不変を願った。黒塗りのアイコンで、bio欄にさえなんの表記もない。ダークモードにしている僕の画面では漆黒がより強く見えた。いいね欄を探ろうとしても、ポストを読み込めませんと表示されるだけ。一人称も存在しない。たったそれだけの存在が毎日呟く過ぎ去った天気の報告が、僕の拠り所になった。誰のこともフォローしていない黒塗りのそのアイコンは、遡ること二年前からツイートが開始されていた。アカウントの解説は四年前のようで、僕はその空白の二年に嫉妬した。   @unknownam2 意地の悪い晴れ間。お前のせいで優劣が付くんだよ、太陽。  タオルケットを剥ぎ取って水を飲み干し、テレビのスイッチを入れると旅番組の再放送がなされていた。その場所が誰かにとっては目新しく、誰かにとっては恨めしく、誰かにとっては愛すべき場所であるのかと、そんな理屈めいたことが真夜中の脳内を逡巡するものだから追い払うように今つけたばかりのテレビを消した。春は忌々しき不協和音だ。だが、交わらない響きの中に、ほんの一瞬だけ生まれる和音がある。 @unknownam2 くもり。  ツイート主の「くもり」という一言を眺めてから窓を開けると、月が滲むような装飾をつけてこちらを睨んでいた。照らされる者と、翳る者。穿つ者と、慣性の法則に従って定位置へと引き返す者。月と睨み合いをしていたら一羽の鴉がベランダへと止まった。目を見張るほど美しい濡れ羽色に身を包んだ鴉は、僕の眺める方向を見つめているようで、寸分にも動きを見せず、雲で月が覆われるとつまらないとでも言い出しそうなヤワな瞳でおもむろに羽を広げた。左側の羽は傷があるようで、少しだけ下がっていた。   × × ×  二年が経過した。  物事には何の差異もないが、強いて言うのであれば、 深夜二時のツイートはあの日の「くもり。」を最後に途絶えたことぐらいだろうか。  人間とは輪廻転生。  今日という日を何年後も生きるのではない。  今日という日が何年か先に繰り返されるのだ。 ダルセーニョから強制的にセーニョへと戻されるように、パラレルワールドやなにかの類とは違って、過ごす軌跡というものを踏みながらでしか生きられないというだけ。  フィーネをどこか遠くに置いたまま、人はまたセーニョに戻る。僕は相変わらず、更新されない夜中の二時を待った。闇を祓うような落書きに侵食された桜坂沿いの階段をのぼり、いつまで経っても工事の完了しない渋谷を見下ろした。いつになっても未完成のこの場所から唯一、ここへ戻る権利を与えられている気がする。  深夜一時五十八分。たった一人の男が立ち止まって、空を一瞥し、咥えていた煙草を歩道橋から真下へ放り投げた。モザイクのような男。情けなくスローで落ちていく吸殻に反比例して雲が早く流れていった。絵の具で塗り潰したような夜闇は街のネオンが反射して水を零すがごとく薄まり、綿を固めて放り投げたみたいな雲が急ぎ足で流れて行った。この雲共は、一体どこへ帰るのだろう。  男は放り投げた煙草の行方も見届けぬまま、手元のスマホに一言二言打ち込んでからポケットへとそれを滑らせた。吸い寄せられるように視線がそちらへと取られた刹那、僕のスマホが震えた。二時。ツイートの通知だ。    @unknownam2 曇。そんなに急いだって帰る場所なんかないだろ、お前は。  二年前の「くもり。」に続き、何事も無かったかのように投稿されたそれこそがダルセーニョだった。僕を一瞬でそのときへと引き戻した。戻る権利を貰えると人は、不協和音のなかの倍音を知る。スマホから視線を前へと移すと男と目が合い、空白が数秒流れ、そして、男は歩道橋の手すりへと体を預け、街を見下ろした。思わず、反射的に、本能で――様々な言い訳を持って僕は男に呼びかけた。ぁの、という情けない鳴き声にも似た声は雑踏に熔け、何台かの車が下を通過したせいで男の意識もそちらに吸い寄せられたようだった。  仕方が無いので、何人か分の空間を空けて僕も隣に並んだ。男の真似をして煙草を下に向けて手放すと、湿気のせいかやはりゆっくりと落ちていった。長身で、スルスルと撫で堕ちるような髪の毛は肩辺りまで伸び、夜に浮かぶ瞳は空間によく溶けた。黒いロングのファッショナブルジャケットに、同色のトラックパンツ。先程煙草を摘んでいた指をシルバーのリングが彩っている。 「くもり」 「……え?」  男は確かにこちらへと呟いた。くもり。先程僕の放った「ぁの、」という呼びかけは届いていたのか否か。そんなことはどうでもよい。ただ、男が天気を呟いた、それは画面の中の午前二時が今、ここで可視化されたということだけが確約的現象なのだ。   「ここが俺の全て」 「……」 「この道路は海みたいなもんだよ」 「海、ですか」 「行って、帰って、その繰り返し」    男は愛おしそうむべく下を見下ろしていた。道路を行き交う車を海の波なのだと表現するのはあまりにぞんざいに思えたが、僕は男に共感した。男にとってのセーニョはこの街なのだと。 「僕にとっては」 「ん?」 「貴方は波なんです」 「俺は消えた」 「でも戻ってきたじゃないですか」  そう言うと男はフッと小さく笑った。もう恐らく目にはしないであろう貴方に、僕は焦がれ、そしてスマホの中の貴方という波を探した、畝りを作り出す音という清らかな波は、貴方を作り出す。寄せては返す静けさも、嫋やかな落日も、スマホの向こうにしか広がらない小さな言葉の海も、此処にしか存在しないもの。明日を知らずに昨日を切り捨てた渋谷、未来永劫再生され続けるイカれたTikTok、タイムラインを闊歩するアイコン。貴方はここに居る。羽を痛めた鴉が、ベランダで雨宿りをしていた。 ×
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