暗闇の中で生きていく

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運命の番なんて都市伝説だと思うか。父さんも昔はそう思っていたよ。 母さんもだ。でも母さんも父さんも運命の番に会ったことがあるんだ。 母さんは中学一年生の時だったって。母さんは母さんの地元の有名な私立校に中学受験して入ったんだけど、担任の先生が運命の番だったんだ。 見た瞬間、分かったそうだよ。 分かるんだ。 これは経験したアルファにしか分からない……アルファとオメガにしか分からない。 母さんが分かったように、担任の先生も理解したって、母さんが言ってた。「分かる」んだって、それも。 でも言葉は交わさなかったって。 交わせなかったったってさ。 先生が逃げるから。 ホームルーム後に話しかけようとしても、職員室に訪ねに行っても、先生は無理矢理理由をつけて母さんから逃げたんだ。でも担任の先生だからね、一人の生徒を不自然に避ける行動が生徒の間でも先生の間でも問題になってしまって…母さんは学校を辞めることになった。 自主退学だよ。辞めさせられたわけじゃない。母さんが自分の意思で、自分の運命の番から退いたんだ。 先生は新婚だったんだ。 先生はオメガで、それなのに生徒にアルファの多い有名私立校で教鞭を執っていて、きっと大変な苦労を重ねて今の地位を獲得したに違いない、だから立ち去るべきは私って母さんは言っていた。 自分のオメガなら奪ってしまえばよかったって? 母さんはまだ中学生だったんだから、略奪なんてできっこないさ。それに母さんは「自分のオメガ」には幸せになってほしいと思っていたんだ。 そういうものなんだよ。真実の愛とか言うのはちょっと臭いかな…うん、まあそうだね。 母さんが強硬手段に出なかったのは、母さんがまだ子供だったことと、女性だったってことが要因にはなっていると思うけど。オメガを無理矢理手込めにしようとして捕まったっていう事件の加害者はほとんど男のアルファばかりだし。 フェロモンに駆られにくいっていうのは女性アルファの強みではあるよね。それ以上に母さんは、自制心の強い人だから。 父さんが母さんの立場だったら我慢できていなかったかもしれない。 父さんが運命の番に会ったのは研修医の時だよ。 父さんの運命の番は患者だったんだ。植物状態の八十九歳のご老人だった。 不思議なもんだろう。向こうは意識も、言葉もないのに分かったんだ。 フェロモンも本当にごくわずかなものだったから、幸いにも惑わされることはなかったけど、胸が塞がれるようで、父さんは思わず泣いてしまった。 聞けば、親族はいたようだけど疎遠で、しばらく誰も見舞いに来ていないという話だった。 もちろん病院でも清拭や体位変換は行なっているけど、うっすら汗や排泄物や褥瘡の匂いが漂っていた。その中に隠れるようにしてフェロモンが漂ってくるものだからね、なんというか、悲しくなったんだ。 自発呼吸はできるけど経管でしか栄養を取れず、目は時々開くけど何も写していない。虚ろな目に、目を合わせてみたけど、何の反応もなかった。反応があったところで、どうしていたかも分からないけど。 一緒にいた看護師長に「疲れが溜まっているのね」と慰められてしまったよ。でも褥瘡のケアを手伝うと言ったら喜んでくれたな。医者も看護師も人手不足なんだ。今も昔もね。 父さんの番のうなじはきれいなものだった。そう、父さんの番は生涯誰とも番わず生きてきたんだ。 知っているかい。その頃はまだ、オメガの抑制剤は有料だったんだよ。保険適用されていたとはいえ、収入の低い者が多いオメガにとっては大きな負担になっていただろうね。今みたいに毎月郵送で薬が送られてくるなんてこともなかったし。 何よりオメガ腺の除去手術が義務化したのがたったの十年前だ。それまでのオメガはフェロモンにずっと苦しめられたままだったんだ。 薬は飲んでいるとはいえ、効かないこともあるし、予定外に発情期が始まることもあるし、それでアルファを誘引したら、非難されるのはオメガの方だ。そういう時代がかつてはあった。そして父さんの番は恐らくそういう時代で生きていたんだろうな、たった一人で。 研修中に父さんのオメガは亡くなった。 親族とは音信不通になったようで、遺体は役所の人が引き取った。それきりだよ。 それから母さんと出会って、結婚した。 母さんは素敵な女性だし、何より運命の番と出会ったにも関わらず、何もできなかったという共通点があった。 同じ痛みを知る同士なんて、まるで何かの被害者のような言い方は好きじゃない。母さんも父さんもかけがえのない片割れを失ったまま、唯一無二の輝きをなくしたまま、永遠に色の戻らない人生をこれから生きていくっていう孤独を分かち合える相手だったんだ。 大丈夫。 母さんと父さんは別々に暮らすことになるけど、お前の両親ではあり続けるから。 仲の良い夫婦として振る舞うことはできないけど、ちゃんとお前の母さんと父さんだよ。 お前は俺たちの唯一無二の存在だ。例えば運命の番が生きていたとしても、お前は世界で一番大事な存在だ。これだけは信じてほしい。
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