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24 クロエ、湯浴みをする
乳白色の湯はかすかに花の香りがして、癒される。
バグバグは今日は例のフェロモンオイルを入れていないのかしら、と考えて少し笑った。鳩首の彼女がせっせとお風呂の準備をする姿はなんだかほっこりする。
「クロエ、城での生活には慣れたか?」
私は考え事をやめてギデオンの方を見た。
身体の動きに合わせて、ちゃぷんと水面が揺れる。
楕円形の浴槽は広く、私たちはそれぞれ端と端に背中をくっつけて浸かっていた。湯気で少しだけもやもやした視界の中で魔王は私を見つめている。
「はい。皆とても優しいので、居心地は良いです」
「それは良かった……」
何か言いたそうな物言いに、私は首を傾げる。
ギデオンは迷った末に小さな声で続けた。
「帰りたいと…思わないのか?」
「家族のもとへですか?もちろん、父や母には会いたいですが、あなたからお話を付けていただいているならきっと事情は分かってくれているはずです」
「……いや、そうではなく」
ライアス王太子の話だ、とギデオンは唸るように言った。
久しぶりに聞いた元婚約者の名前に私は驚きつつ、自分の内なる気持ちを探ってみる。意志の強い青い瞳や王子らしく清潔感のあるサラサラの黒髪を思い返していたら、その腕にしがみつくビビが浮かんだので、思わずバシャッと顔に湯を掛ける。
ショックじゃなかったわけじゃない。
だけど、帰りたいとは思わない。
「彼の元にはもう戻れません。私に居場所ではありませんから」
「お前はあの男とどれだけの期間、婚約を……?」
「五歳の時です。私は今年で十八になりますので、彼に捧げた年月は惜しいですが…仕方がないことです」
「………そうか」
それっきりギデオンは黙り込む。
気遣ってくれているのだろうか?
この優しい魔王は見掛けに寄らずに繊細な人間の心の変化も分かるようだから、彼なりに私の境遇を心配してくれているのかもしれない。
私はこっそり感謝しつつ、のぼせそうになったので浴槽の淵に手を突いて立ち上がった。彼が何か物思いに耽っているうちに洗ってしまおうと思ったのだ。
しかし、その計画は頓挫した。
「クロエ、まだ行くな」
グイッと腕を引かれたかと思うと、ギデオンは私の腰に手を掛けて自分の膝の上に座らせる。居心地の悪い生身の椅子にお尻を着けると、すぐ近くに彼の息遣いを感じた。
「……ん、ギデオン?どうしたの?」
「婚約者以外にも……愛人は居たのか?」
私はギョッとして首を振る。
「そんなことはありません!どんな噂を耳にしたのか知りませんが、十八年間ライアス様以外に身体を許したことは、」
憤ってそこまでひと思いに吐き出したところで、ギデオンは私を強く抱き締めた。力強い二本の腕が胸の前で交差するのを見て驚く。
「ど…え、?」
「悪い、長湯しすぎた。少しだけこのままで」
「ギデオン……?」
ドッドッと大きく高鳴る心臓の音が魔王に聞こえないことだけを願いながら、私は息を潜める。背中越しの他人の体温に、お腹の奥がぎゅっと縮まった。
結局その後、バグバグがお湯加減を確認しに来るまで、私たちは無言を貫いた。「先に上がる」と言ってその場を去った魔王の姿が磨りガラスの向こうに消える。
私は、呼吸を立て直すために深呼吸を繰り返す。
どうにも調子が狂うので湯の中に身体を深く沈めた。
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