30 クロエ、月の下を散歩する

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30 クロエ、月の下を散歩する

 魔王から散歩の誘いがあったのは、良く晴れた日の夜のことだった。  日中はポカポカ陽気が気持ち良く、夜になると雲一つない空に満月がぽかんと浮かんだ。窓を全開にして遠くに見える静かな海を見ていたところ、ノックの音と共にギデオンが顔を覗かせたのだ。 「クロエ、少し時間をもらっても?」 「閨のお勉強ですね。大丈夫です」 「いや、今日はそうではなく……」 「?」 「散歩に行かないか?」  空気が良い、と窓の外を指さして言うから私は頷く。  断る理由もないし、夜の散歩というのはなんだか童心に帰るようでワクワクするから。最近暖かくなって来たので外を歩いても冷えるようなことはないだろう。  ギデオンが部屋の外で待っている間に、私はナイトドレスの上に長めのガウンを羽織って靴を履いた。衣服や靴などはすべて私のサイズで揃えられていたけれど、いつの間に情報を得ていたのか不思議だ。  バグバグの下についたロッソも徐々に仕事を覚えてきたようで、和気藹々(わきあいあい)と働く彼女たちを眺めるのは楽しい。 「お待たせしました」 「よし、行くか」  差し出された手を取って静けさに満ちた廊下を歩く。  使用人たちが寝泊まりしているのか、それとも仕事を終えて帰っているのか分からないけれど、もう就寝の時間ということもあって建物内は人気がない。  指先を握る魔王の手が、夜伽の時には私を弄び、おかしくすることを知っている。なんでもない風な顔で過ごしていても、私たちはお互いの身体の悦いところを理解している。それだけで二人は繋がっているのだから。 「何処かを目指して向かっているのですか?」  私の質問にギデオンは静かに頷いて見せる。 「少し歩くが足が痛くなったら教えてくれ」 「ありがとうございます……」  無口な魔王の隣を歩きながら、私は合わさった手から伝わる確かな熱を感じていた。  この島に来て一ヶ月半ともなると、環境にも慣れてきた。ギデオンとの夜伽の関係も、相変わらず緊張はするものの、初期よりはマシだと思う。  考え事をしながら道を進んでいたら、魔王は突然立ち止まった。 「着いたな、此処だ」  声を聞いて顔を上げる。  そこには、月に向かって身を起こす白い花たちの姿があった。控えめな大きさの花もこうして群生すると圧巻で、暗闇の中でまるでこの場所だけが選ばれた特別な場所のようだ。 「綺麗……こんなお花、初めて見ました」  私は思わず感嘆の息を洩らす。 「ルアルと呼ばれる花で、満月の日にしか咲かない珍しい花なんだ。やはりペルルシアには無いんだな」 「ええ。話に聞いたこともありません。これを私に見せてくださるために……?」  見上げた先でギデオンは戸惑った顔で頷いた。  少し恥ずかしそうなその様子に私まで顔が熱くなる。 「ありがとう、とても嬉しいです。覚えておきますね」 「ルアルに願い事をすれば叶うと言われているから、せっかくの機会だしお前も何か願ってみると良い」 「願い事…ですか」  私は月を見た後でゆっくりと目を閉じる。  両手を組んで口元に近付けた。  しばらくの間、遠くから聞こえる波の音と、時折風にそよぐ草木の音だけが辺りの空気を揺らしていた。ペルルシアから海を隔てたこの未知なる土地で、何かを祈ることになるなんて思いもよらなかった。  願い事を終えて目を開くと、こちらを見る魔王と目が合った。 「………ギデオン?」 「上手く祈れたか?」 「はい。大切な皆の健康などを。あなたも祈ったの?」 「そうだな、俺も少しだけ」  風がさらさらと私の髪を攫って、悪女の象徴である真っ赤な髪が視界を塞ぐ。私が自分の手でそれを整える前に、伸びて来たギデオンの手が靡く髪を押さえてくれた。 「…………っ」  月と同じ薄いイエローの瞳を見つめながら、吸い込まれるように唇を重ねる。  私が稀有な花に願ったこと。  それは、この優しすぎる魔王が真に彼を愛してくれる人と結ばれて穏やかな余生を過ごすこと。孤城の主という役割から解き放たれて、家族を持って、愛ある毎日を過ごすこと。  そうすれば、私も安心して元の生活に戻れるから。
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