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閑話◆ 雨が止んだら4
悲しいことにその想像は当たっていて、クロエ・グレイハウンドはあの日のことなどまったく覚えていなかった。
「あなたは……誰ですか?」
迷いなく尋ねられた質問に衝撃を受けつつ名を名乗る。
交わした約束も、過ごした時間も彼女の中には残っていない。それは少なからずショックではあったけれど、こうして城に連れて来ることが出来たからには慎重に進めたい。
彼女が怖がらないように、使用人たちには可愛らしい動物の被り物を身に付けてもらった。幸いにも食事は気に入ってくれたようで、世話係のバグバグとの関係性も良さそうだ。
閨の指導者という難役を受け入れてくれたこと自体が奇跡的だけれど、さらには恨んでもおかしくない自分のことを知ろうとするから驚いた。信じられないことに、魔力が弱まって人間の姿を失った異形の時でさえ、クロエは恐れずにそばに居てくれた。
(まるで……夢みたいだ、)
時々、距離感を誤りそうになる。
単に閨の指導を頼んでいるだけの彼女が、自分を受け入れてくれているような気がしてくる。期間が過ぎても、この場所に留まってくれるのではないかと期待している。
誰にも与えられなかった、愛のようなものを。
受け取っているのではないかと錯覚する。
しかし、頭では分かっていた。数多の下品な噂が飛び交っていても凛とした態度で生きていた彼女は、やはりあの雨の日から何も変わっていない。困っている者に手を差し伸べ、握った手が汚れていたら自分の手を犠牲にしてその泥を拭う。
「私じゃダメなのかしら……?」
だから、クロエがそう言い出した時に自分を恥じた。
白砂丘の上で目を伏せて話す小さな唇を疑った。
「あなたの子を産む人間の女は、私では力不足?」
言葉がザラザラと胸の内を撫でる。
ああ、ここまで追い詰めてしまったのだと、暗い気持ちになりながら身体を引き剥がした。彼女の優しさに甘えて距離を詰めてしまった結果、善人過ぎるクロエは自分の境遇に同情を示してこんな提案をするに至ったのだ。
聞かなかったことにする、と答えるのが精一杯で、その言葉がどれだけ彼女を傷付けるかなんて考える余裕は無かった。
想像しただけで恐ろしいことだ。
クロエが、自分のためにその人生を捧げる。
関係のない魔族の未来を案じて、過ぎた正義感から生涯を棒に振るのはクロエ・グレイハウンドには似合わない。ようやく王太子から解放されて自由になったのに。
(そうだ……彼女はもっと自由に生きて……)
失意のうちに別れた相手を再び目にしたのは、いよいよ計画実行のために接近したピエドラ・アンシャンテの誕生日会。
クロエは赤いドレスを着て虚な顔で笑っていた。
彼女を捨てた元婚約者の隣で、愛人として。
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