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閑話◆ 雨が止んだら5
「………早まったと思うか?」
眠り続けるクロエの白い頬に触れながらそう尋ねると、牛首をこてんと倒してクジャータは反応を返す。分からない、と言いたいのだろうか。或いは、自分で考えろという意味かもしれない。
近付くことを恐れ、愛することに怯えた。
そんな資格はないと分かっていたから。
混血ゆえに魔族としても不完全。
しかしながら、人間になど到底なれるはずもない。彼女を巻き添えにすることが、その人生を暗く閉ざしてしまうという意味だと知っていた。最悪の場合、母のように一生を散らしてしまうかもしれない。
「どうしても、我慢ならなかった」
包帯を巻かれた肩から視線を移すと、目を背けたくなるぐらい散りばめられた赤い痕が見える。閉じた瞼やふっくらとした頬は、暗闇では気付かなかったけれど異常に腫れていた。
「もう少し甚振って殺せば良かったな。あんなにスパッと首を飛ばしたのでは、痛みも感じなかっただろうから」
「………奪われたロッソの遺品を回収しますか?」
「その必要はない。どうせ何の価値もないさ」
「しかし、映像石だったと…」
「クロエの記憶を覗いたのか?」
振り返った先でバツが悪そうにクジャータは首を竦める。
「診察に来た医者が言っていたのです。この城で人間の子を産んでは困りますから、彼女の身体を確認する必要がありました。どうやら王子は種無しのようで……その心配は無かったようですが……」
「っは、くだらないな…!死んで当然だ」
なにが不妊症の診察だ。
クロエが思うように反応を返さないのは王子の力不足、子を成さないのは己のせいではないか。馬鹿馬鹿しい。
(本当に……くだらない、)
そんな男に捕まって、今まで何度も彼女は陵辱された。
食事もまともに食べていなかったのか、一緒に過ごしていた頃よりもかなり肉が落ちたように見える。自由に生きてほしいと送り出したのに、こんな姿で戻って来るなんて。
「映像石は今どこに?」
「最後の会話では王都の研究所で…」
「俺が行く。研究所ごと燃やせば良いだろう」
「それは流石に度が過ぎるのでは、」
「クジャータ、俺はもう二度と脅かされたくない。何も要らないんだ。ただ、この場所を失いたくない」
牛首は閉口して唸るような声を上げた。
可愛らしい顔から聞こえる低い声は奇妙な感じだ。
「………分かったよ、最初にボヤでも起こして建物から人を掻き出した上で燃やすことにする」
「燃やすのは燃やすんですね」
「ちょうど気が立ってるからな」
片手を上げるとパチパチと小さな炎の玉が浮かんだ。
この場所で試さないでください、という冷静な忠告に頷いて、最後に一目とベッドに近付く。
クロエを城に連れ帰って一週間が経つ。
医者の見解では命に別状はないようだが、肩を撃たれた際のショックが原因なのか、なかなか意識が戻らない。暇さえあればこうして見に来ているけれども、もしかすると自分が近くに居ることで尚更彼女の心は奥深くへ潜っているのではないかとすら思えた。
「目が覚めたらすぐに教えてくれ」
「もちろんですとも」
足早にその場を去って廊下に出たら、タオルの乗った銀の盆を片手に啜り泣くバグバグを見つけた。ロッソを採用したことに責任を感じていると吐露していたことを思い出す。
「お前のせいじゃない」
「……うぅっ…ですが、」
「もう良い。それ以上泣くな」
俯いたままの鳩首を見て背中を叩いた。
歩きながら考える。
あの時、拒絶したりしなければ良かったのだろうか。「是非とも俺の子を産んでくれ」と手を取って喜ぶべきだったのか。そうすれば、少なくとも、あの悪魔の元には渡らなかっただろう。
しかし同時に、王子の言葉が頭の中で反響する。
野蛮で下劣な奴らのことを忘れたい、彼女はそう言ったと。
後悔が滲む胸に小さな棘が刺さる。
クロエは実際のところ、どんな気持ちで三ヶ月もの間この場所に居たのだろう。ご機嫌取りのつもりで寄り添って気持ちの良い言葉を吐いたのか、或いは少しは彼女の本心のようなものもあったのか。
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