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 朝何とか起きてスーパーのバイトに行けたのは、気力の賜物だった。  昨晩のことは悪い夢だ。あんな非現実的なことが、本当に起こるわけがない。  今日は清掃場所もあのビルとは違うし、破れた制服のことを謝りに行かないとと思いながら、家に向かう途中、私は声をかけられた。 「日向雪緒様ですね」  とても長い黒の車のすぐ横に、長髪を片側で軽く結わえ、白い手袋を嵌めスーツを着た長身の眼鏡をかけた若い男性が、道路の脇に立っていた。  窓ガラスは黒く塗りつぶされ、中は見えない。 「……どなたでしょう?」  思い切り警戒して男性に威嚇する。 「|閨(けい)様、お出でになりました」  男は私の威嚇など意に介さず、車に向かって声をかけドアを開けた。  そこから白いストライプの模様が入った黒の体にピタリとしたスーツを着た、サングラスをかけた男性が降りてきた。   「日向雪緒、待っていた」 「あ、あなたは…」  それは悪い夢だと思って忘れようとした昨夜の男性だった。 「乗れ」  眼鏡の男性が閨と呼んだ男性は、体をずらして車に乗れと命令する。 「……良く知りもしない人の車になんて…」 「俺の名は|月夜見(つくよみ)|閨(けい)だ」 「月夜見…?」  警戒する私に男が名乗った。月夜見という名は珍しい。それは昨夜私が掃除のために訪れたビルを所有する会社の名前だ。 「あそこは俺のビルだ。月夜見ホールディングスは俺の所有する会社だ」  彼はそう付け加えた。   「さあ、これで俺が誰かわかっただろう。早く乗れ」 「あ、あなたが誰かわかったとてしたも、良く知らない人なのは変わらな…」 『乗れ』  月夜見の口調が変わった。その声を耳にした途端、私の頭はまるで高熱を出した時のようにボーッとなって、気が付いた時にはなぜか車の中にいた。 「え、な、なんで?」  車に乗った記憶がない。重厚な革張りの座席はどこかの応接間のようだ。ストライプのシャツと黒のスリムジーンズを着て、その上にベージュのパーカーを羽織り、足元は紐なしのスニーカーの私は、場違い極まりない。そもそも私はいつの間に車に乗り込んだのか。普通なら絶対に、見ず知らずの人の車に乗ることなどしないのに。 「俺の力が効きにくくようだな」  居心地の悪さにソワソワしていると、目の前で長い脚を組んで座った月夜見が、サングラスを外して言った。 「力?」  やはり彼は何か不思議な力を持っているようだ。 「あ…あなた…つ、月夜見さんでしたっけ、私に何の用があるんですか? 言っておきますけど、屋上は出入り自由だって聞いたからで、勝手に入ったわけではありません」    屋上に勝手に入ったことに文句でも言うつもりなのかと、先に弁明する。 「日向雪緒、二十歳。○県出身。父親は戸籍に名前が無く、母親が未婚のまま出産。二歳の時母親が他界。以降母方の祖父日向幸之助と暮らす。半年前その祖父も亡くなり、東京に出てきた。恐らくは父親を探すため。しかし探す手かがりが無くなり、そのまま東京に留まる。昼はコンビニで夜は清掃会社で働いている」 「な…!」  いきなり彼は私の事情をべらべらと話し始めた。 「どこか間違っているか? ああ、性格はしっかりもので年寄りには親切。同級生とはあまり打ち解けられず、友人と呼べる者は殆どいない。もちろん恋人も」 「……そ、そんなことまで…し、失礼ね」  私は怒りと恐怖を覚えた。何の権利があって私のことを調べたのかという怒りと、そこまで調べられたことに対する恐怖。自分は彼のことを知らないのに、向こうはきっと、今私がどこに住んでいるのかも調べ尽くしているに違いない。 「な、なぜそんなこと…私のことを調べてどうするつもりですか?」  勝手に体がガタガタ震える。もしかしてこのままどこかに連れ去られ、殺される? もしくはどこかに売られる? 私がいなくなっても、探したり警察に届けたりしてくれる身内はいない。 「君がどこの誰か気になった。何しろ俺の花嫁になる相手だからな」    臓器を奪われて、その臓器を闇ルートで売られる場面を想像していた私の耳に、そんな単語が飛び込んできた。 「へ…今、何て?」 「日向雪緒、俺の花嫁になれ」  突然何の脈絡もなく、殆ど知らない人に求婚されたら誰でもそう思う。  聞き間違いかと、彼の無言の威圧に怯えつつ聞き返す。まるで蛇に睨まれた蛙。自分が追い詰められた獲物のように感じるのは、気のせいなんかじゃない。 「俺は同じことを二度言わされるのは嫌いだ。他の者なら今の時点で抹殺していたところだが、君は特別だから、今回は目を瞑ろう」 「ま、抹殺」     抹殺とか、とても物騒な言葉が彼の口から発せられ、私の体はバイブのように震え、自分でもどうにも止められない。 「安心しろ。君は大事な花嫁だ。丁寧にもてなすつもりだ。ただ、俺に逆らうことは許さない」 「な、なじぇ…なぜ私があなたの…は、花嫁…花嫁って妻ってことでしゅよね。わ、私とあなたは、昨日会ったばかりで…」 「俺が普通の人間でないことは、察しているだろう?」 「そ、それは…」  昨夜の出来事を思い出す。 「俺は|吸血鬼(ヴァンパイア)だ」 「ヴァ……」  普通でないということは理解していたし、そうかもとは思っていたが、いざ実際にそう言われても、すぐさま本気に出来ない。 「信じられないだろうが、本当だ」  きっと信じられないという風に顔に書いてあったのだろう。彼がそう言うと、また瞳が金色に変わり牙が生え、全ての手の爪が伸びた。 「意外に肝が座っているのか、悲鳴でも上げるかと思ったが、何か言うことは?」  あまりに非現実的過ぎて、どこから突っ込めばいいかわからないが、大きな会社の社長さんが、昼日中からわざわざ「自分が吸血鬼だ」と冗談を言う理由が見つからない。信じるしかないだろう。 「今、昼間よね。吸血鬼は日中は棺桶で眠っているんじゃ?」 「日光が苦手な者もいるし、夜の方が活動し易いが、行動を制限される程でも無く、それは大した弱点ではない。人でも日焼けを気にして、肌を覆ったり日傘を差したり色々対策はする。それと同じだ」 「ニンニクや十字架は?」 「臭いのは嫌いだが、それだけだ。見ただけでは怯えない。十字架はそもそもキリスト教徒の持ち物だ。仏教徒やイスラム教徒には関係ないことだ。そんなのが弱点になると?」    日光もニンニクも十字架も、吸血鬼の苦手なものだと聞いたものは、弱点ではなかった。じゃあ、他に弱点は? 「言っておくが、木の杭で心臓を貫かれたら、どんな生き物も死ぬ」  次に何か言う前に、先回りして言われた。確かにそうだ。心臓を貫かれて生きている方が化け物だ。   「私の血を…吸うの?」 「君の血は確かに美味だった。この俺が思わず我を忘れるほどに。俺は偏食家で、これまで生きてきた中で、生き血を美味しいと思ったのは初めてだ」   生き血を全て奪われて、ミイラになった自分の死体を想像してぞっとする。 「大丈夫だ。襲いかかって血をすべて飲み干すような野蛮なことはしない。そんなのは愚か者のすることだ。血は必要最小限摂取するだけで、普通の食事も食べる。ただし俺は好みにうるさくて、オーガニックでなければ駄目だし、口にするもの全てに拘りがある」  偏食家の吸血鬼だか何だか知らないが、そう言われてもちっとも安心出来ない。何しろ相手は吸血鬼。私にとっては未知の生き物だ。何が本当で嘘かわからない。 「花嫁にして殺すの?」 「殺すためにわざわざ花嫁にする必要は無い」 「じゃあどうして、私を花嫁なんて…」    血を吸うつもりがないのに、私の血が美味しいと言う。でも、殺すつもりもないと言う。恋人もいたことがないが、結婚にそれなりに夢も希望もある。命令口調で「花嫁になれ」と言われて、「はいそうですか」と言えるわけがない。 「本当に質問ばかりだな」  文句に聞こえるが、月夜見閨という目の前の自称吸血鬼の社長は、柔和な笑みを浮かべている。怒っている様子はない。 「損はさせない。最低限の|規則(ルール)さえ守れば、思う限りの贅沢をさせてやろう。服も宝石も、ほしいだけ買えばいい。君のその瞳と同じ大きさの宝石もいくつだって買ってやる」 「代わりに私は何をするの?」  宝石に興味はないけど、気前が良すぎる申出に私は何を差し出せばいいのか。 「君は俺のためにコップ一杯の血をくれればいい」 「コップ一杯の…血。つまり食糧になれと?」  予想どおりだけどコップ一杯だろうが、血は血だ。花嫁と言えば聞こえはいいが、血液バンク扱いされているのに変わりはない。 「そう思ってくれてもいいが、それならわざわざ『花嫁』にする必要はないだろう。俺は君を花嫁に迎えたい」 「それに何の意味が?」 「言っただろう? 俺は好みが偏っている。しかし君の血はそんな俺の口に合った」 「それは…喜ぶべきこと、なんですか」  好みの血だと言われて、どうリアクションしたらいいんだろう。 「他のことについても…たとえば結婚した男女がすることも、そういう好みが重要だ。好みでない女は抱けない」 「つまり…その、セ…」 「その件は、すぐとは言わない。君にも心の準備が必要だろう」 「私、まだ花嫁になるなんて」 「俺が決めたことだ。君は花嫁になる」 「そ、そんな…勝手に」    断る選択肢はない言い方に抵抗しようとしたが、彼のひと睨みで口が動かなくなった。 「それに、望めば君の父親のことも探してやろう。俺には優秀な部下がいる」 「私のことを調べたみたいに?」  ほんの半日足らずで、簡単に私のことを調べたのだから、私の父親のこともすぐに調べられるだろう。
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