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4
朝何とか起きてスーパーのバイトに行けたのは、気力の賜物だった。
昨晩のことは悪い夢だ。あんな非現実的なことが、本当に起こるわけがない。
今日は清掃場所もあのビルとは違うし、破れた制服のことを謝りに行かないとと思いながら、家に向かう途中、私は声をかけられた。
「日向雪緒様ですね」
とても長い黒の車のすぐ横に、長髪を片側で軽く結わえ、白い手袋を嵌めスーツを着た長身の眼鏡をかけた若い男性が、道路の脇に立っていた。
窓ガラスは黒く塗りつぶされ、中は見えない。
「……どなたでしょう?」
思い切り警戒して男性に威嚇する。
「|閨(けい)様、お出でになりました」
男は私の威嚇など意に介さず、車に向かって声をかけドアを開けた。
そこから白いストライプの模様が入った黒の体にピタリとしたスーツを着た、サングラスをかけた男性が降りてきた。
「日向雪緒、待っていた」
「あ、あなたは…」
それは悪い夢だと思って忘れようとした昨夜の男性だった。
「乗れ」
眼鏡の男性が閨と呼んだ男性は、体をずらして車に乗れと命令する。
「……良く知りもしない人の車になんて…」
「俺の名は|月夜見(つくよみ)|閨(けい)だ」
「月夜見…?」
警戒する私に男が名乗った。月夜見という名は珍しい。それは昨夜私が掃除のために訪れたビルを所有する会社の名前だ。
「あそこは俺のビルだ。月夜見ホールディングスは俺の所有する会社だ」
彼はそう付け加えた。
「さあ、これで俺が誰かわかっただろう。早く乗れ」
「あ、あなたが誰かわかったとてしたも、良く知らない人なのは変わらな…」
『乗れ』
月夜見の口調が変わった。その声を耳にした途端、私の頭はまるで高熱を出した時のようにボーッとなって、気が付いた時にはなぜか車の中にいた。
「え、な、なんで?」
車に乗った記憶がない。重厚な革張りの座席はどこかの応接間のようだ。ストライプのシャツと黒のスリムジーンズを着て、その上にベージュのパーカーを羽織り、足元は紐なしのスニーカーの私は、場違い極まりない。そもそも私はいつの間に車に乗り込んだのか。普通なら絶対に、見ず知らずの人の車に乗ることなどしないのに。
「俺の力が効きにくくようだな」
居心地の悪さにソワソワしていると、目の前で長い脚を組んで座った月夜見が、サングラスを外して言った。
「力?」
やはり彼は何か不思議な力を持っているようだ。
「あ…あなた…つ、月夜見さんでしたっけ、私に何の用があるんですか? 言っておきますけど、屋上は出入り自由だって聞いたからで、勝手に入ったわけではありません」
屋上に勝手に入ったことに文句でも言うつもりなのかと、先に弁明する。
「日向雪緒、二十歳。○県出身。父親は戸籍に名前が無く、母親が未婚のまま出産。二歳の時母親が他界。以降母方の祖父日向幸之助と暮らす。半年前その祖父も亡くなり、東京に出てきた。恐らくは父親を探すため。しかし探す手かがりが無くなり、そのまま東京に留まる。昼はコンビニで夜は清掃会社で働いている」
「な…!」
いきなり彼は私の事情をべらべらと話し始めた。
「どこか間違っているか? ああ、性格はしっかりもので年寄りには親切。同級生とはあまり打ち解けられず、友人と呼べる者は殆どいない。もちろん恋人も」
「……そ、そんなことまで…し、失礼ね」
私は怒りと恐怖を覚えた。何の権利があって私のことを調べたのかという怒りと、そこまで調べられたことに対する恐怖。自分は彼のことを知らないのに、向こうはきっと、今私がどこに住んでいるのかも調べ尽くしているに違いない。
「な、なぜそんなこと…私のことを調べてどうするつもりですか?」
勝手に体がガタガタ震える。もしかしてこのままどこかに連れ去られ、殺される? もしくはどこかに売られる? 私がいなくなっても、探したり警察に届けたりしてくれる身内はいない。
「君がどこの誰か気になった。何しろ俺の花嫁になる相手だからな」
臓器を奪われて、その臓器を闇ルートで売られる場面を想像していた私の耳に、そんな単語が飛び込んできた。
「へ…今、何て?」
「日向雪緒、俺の花嫁になれ」
突然何の脈絡もなく、殆ど知らない人に求婚されたら誰でもそう思う。
聞き間違いかと、彼の無言の威圧に怯えつつ聞き返す。まるで蛇に睨まれた蛙。自分が追い詰められた獲物のように感じるのは、気のせいなんかじゃない。
「俺は同じことを二度言わされるのは嫌いだ。他の者なら今の時点で抹殺していたところだが、君は特別だから、今回は目を瞑ろう」
「ま、抹殺」
抹殺とか、とても物騒な言葉が彼の口から発せられ、私の体はバイブのように震え、自分でもどうにも止められない。
「安心しろ。君は大事な花嫁だ。丁寧にもてなすつもりだ。ただ、俺に逆らうことは許さない」
「な、なじぇ…なぜ私があなたの…は、花嫁…花嫁って妻ってことでしゅよね。わ、私とあなたは、昨日会ったばかりで…」
「俺が普通の人間でないことは、察しているだろう?」
「そ、それは…」
昨夜の出来事を思い出す。
「俺は|吸血鬼(ヴァンパイア)だ」
「ヴァ……」
普通でないということは理解していたし、そうかもとは思っていたが、いざ実際にそう言われても、すぐさま本気に出来ない。
「信じられないだろうが、本当だ」
きっと信じられないという風に顔に書いてあったのだろう。彼がそう言うと、また瞳が金色に変わり牙が生え、全ての手の爪が伸びた。
「意外に肝が座っているのか、悲鳴でも上げるかと思ったが、何か言うことは?」
あまりに非現実的過ぎて、どこから突っ込めばいいかわからないが、大きな会社の社長さんが、昼日中からわざわざ「自分が吸血鬼だ」と冗談を言う理由が見つからない。信じるしかないだろう。
「今、昼間よね。吸血鬼は日中は棺桶で眠っているんじゃ?」
「日光が苦手な者もいるし、夜の方が活動し易いが、行動を制限される程でも無く、それは大した弱点ではない。人でも日焼けを気にして、肌を覆ったり日傘を差したり色々対策はする。それと同じだ」
「ニンニクや十字架は?」
「臭いのは嫌いだが、それだけだ。見ただけでは怯えない。十字架はそもそもキリスト教徒の持ち物だ。仏教徒やイスラム教徒には関係ないことだ。そんなのが弱点になると?」
日光もニンニクも十字架も、吸血鬼の苦手なものだと聞いたものは、弱点ではなかった。じゃあ、他に弱点は?
「言っておくが、木の杭で心臓を貫かれたら、どんな生き物も死ぬ」
次に何か言う前に、先回りして言われた。確かにそうだ。心臓を貫かれて生きている方が化け物だ。
「私の血を…吸うの?」
「君の血は確かに美味だった。この俺が思わず我を忘れるほどに。俺は偏食家で、これまで生きてきた中で、生き血を美味しいと思ったのは初めてだ」
生き血を全て奪われて、ミイラになった自分の死体を想像してぞっとする。
「大丈夫だ。襲いかかって血をすべて飲み干すような野蛮なことはしない。そんなのは愚か者のすることだ。血は必要最小限摂取するだけで、普通の食事も食べる。ただし俺は好みにうるさくて、オーガニックでなければ駄目だし、口にするもの全てに拘りがある」
偏食家の吸血鬼だか何だか知らないが、そう言われてもちっとも安心出来ない。何しろ相手は吸血鬼。私にとっては未知の生き物だ。何が本当で嘘かわからない。
「花嫁にして殺すの?」
「殺すためにわざわざ花嫁にする必要は無い」
「じゃあどうして、私を花嫁なんて…」
血を吸うつもりがないのに、私の血が美味しいと言う。でも、殺すつもりもないと言う。恋人もいたことがないが、結婚にそれなりに夢も希望もある。命令口調で「花嫁になれ」と言われて、「はいそうですか」と言えるわけがない。
「本当に質問ばかりだな」
文句に聞こえるが、月夜見閨という目の前の自称吸血鬼の社長は、柔和な笑みを浮かべている。怒っている様子はない。
「損はさせない。最低限の|規則(ルール)さえ守れば、思う限りの贅沢をさせてやろう。服も宝石も、ほしいだけ買えばいい。君のその瞳と同じ大きさの宝石もいくつだって買ってやる」
「代わりに私は何をするの?」
宝石に興味はないけど、気前が良すぎる申出に私は何を差し出せばいいのか。
「君は俺のためにコップ一杯の血をくれればいい」
「コップ一杯の…血。つまり食糧になれと?」
予想どおりだけどコップ一杯だろうが、血は血だ。花嫁と言えば聞こえはいいが、血液バンク扱いされているのに変わりはない。
「そう思ってくれてもいいが、それならわざわざ『花嫁』にする必要はないだろう。俺は君を花嫁に迎えたい」
「それに何の意味が?」
「言っただろう? 俺は好みが偏っている。しかし君の血はそんな俺の口に合った」
「それは…喜ぶべきこと、なんですか」
好みの血だと言われて、どうリアクションしたらいいんだろう。
「他のことについても…たとえば結婚した男女がすることも、そういう好みが重要だ。好みでない女は抱けない」
「つまり…その、セ…」
「その件は、すぐとは言わない。君にも心の準備が必要だろう」
「私、まだ花嫁になるなんて」
「俺が決めたことだ。君は花嫁になる」
「そ、そんな…勝手に」
断る選択肢はない言い方に抵抗しようとしたが、彼のひと睨みで口が動かなくなった。
「それに、望めば君の父親のことも探してやろう。俺には優秀な部下がいる」
「私のことを調べたみたいに?」
ほんの半日足らずで、簡単に私のことを調べたのだから、私の父親のこともすぐに調べられるだろう。
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