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3
「怪我をしているのか」
「……?」
質問の意味がすぐ理解出来ず、ただ男の顔を見つめ返す。
「…!!」
驚きで私は目を見開いた。男の人差し指の爪がビュンと伸び、その手をさっと横に払ったかと思うと、私の制服の左袖が肩先からスパンと裂けた。
次から次へと起こる不思議な現象に、私は声を発することも出来ず、ただただ息を呑むことしか出来ない。
突如目の前に現れた、この世のものとは思えないほど美しい男性。宙づりになっている体。自由がきかない手足。突然伸びた爪。いとも簡単に裂けた衣服。
(これは異常だ。普通じゃない)
そう思い、頭の芯では抗おうと必死なのに、男から目が離せない。怖いもの見たさとでも言おうか、瞳は彼を凝視したまま、逸らすことができない。
ベリッと音がして、絆創膏が勝手に剥がれ地面に落ちる。
そこには今朝自転車とぶつかった時に出来た傷があった。
既にかさぶたが出来た傷に男が爪を立てると、そこからじわりと血が滲み出てきた。
「……!!」
もはやこれ以上驚くことなどないと思っていたが、それは思い違いだった。
男の瞳の色が黄金色に変わり、僅かに開いた形の良い唇の両端から、牙が飛び出た。
まるで|吸血鬼(ヴァンパイア)だ。
そう思っていると、男は伸びた爪の先に付いた私の血を、舌先でペロリと舐めた。
途端に男の双眸がかっと見開き、私達を中心にブワッと風が巻き起こった。
「ぎゃあああ!」
「きゃあ」という可愛らしい悲鳴は、残念ながら私の口からは出なかった。
巻き起こった風から目を守るため、動かすことが出来たのは両瞼を閉じることだけ。
その時、私の胸ポケットにある携帯が鳴り、男の気が一瞬削がれたのか、体を縛り付ける力が緩んだ気がした。
ドン
私はその機会を逃さなかった。
田舎育ちの畑仕事などで鍛えた腕力で男の胸を押し、半分よろけながらその場から走り去った。
幸い男は追って来なかった。
俺は逃げた女の背中を、呆然と見送った。
常なら逃げる獲物を見逃すことなどない。
そもそも逃げる隙など、与えない。
一度捕らえたら、相手が死ぬか気が削ぎれて放逐するか、とにかく相手に生き延びるという選択肢はない。
しかしこの時ばかりは違った。
自分の体に起こった事柄に、生まれて初めて戸惑っていた。
「|熾(おき)」
「お側に」
「彼女が何者か、すぐに調べて来い」
すぐ横にさっと跪いた腹心の部下に、振り返らず指示を出す。
「御意」
腹心の熾は「なぜ」とも聞かず、現れた時と同じように瞬時にいなくなった。
俺が指示することや俺の行動に、理由を聞く者は周りにはいない。
質問するのは愚か者のすることだ。
訊き返したり、口答えしたりして瞬時に消し去った者は五万といる。
熾が消え去り、伸ばした右手の人差し指の爪を見下ろす。
そこに彼女の血はもう残っていないが、まだ香りは僅かに漂っている。
爪を鼻に近づけ、その香りを思い切り吸い込む。
すると先程よりは弱いが、またもや恍惚感が訪れ、力が漲ってきた。
「聖なる血…」
かつてそれなりに大勢存在していたそう呼ばれる血を持つ人間も、今では絶滅の危機に面していた。
その原因は、食生活の変化や空気汚染やストレスなどと言われている。
化学肥料を使って栽培された食物。配合された食品添加物。濁った空気。
医学の発展により人間の寿命は延びたが、人間のために処方された薬は、血に溶け込みその味を変えた。
かつて芳醇な香りを放ち、自分たち|吸血鬼(ヴァンパイア)を虜にした血は、科学変化を起こし、すっかり味が変わっていた。
吸血鬼に取って血は必要なものだが、それだけで生きているわけではない。
普段は人と同じ食べ物も口にする。血は最低週に一度、コップ一杯飲めば吸血鬼としての力を維持することが出来る。
吸血鬼が首筋を噛んで生き血を吸うのは、勝手な人間の想像だ。
ろくな道具もなかった時代ではそんなこともしていたが、直接噛んで摂取するなど野蛮な所業だ。
今は献血のようにして血を取る。もちろん血を大量に失わせて、死なせるようなこともしない。
備わった力を使って相手を意識混濁させ、その間に血を奪う。血を奪われた人間はその間の記憶もなく、血を抜いた傷も虫刺されとしか思わせない。
そうして奪った血液をストックし、精製したものを飲む。
仲間の中には精製前の採取したての血を好む者もいるが、あんなものはとても飲めたものではない。
吸血鬼には二通りいる。
生まれながらの吸血鬼と、途中から吸血鬼になったもの。
生まれながらの吸血鬼とは、両方か、片方の親が純粋な吸血鬼だ。吸血鬼の遺伝子は強く、人の遺伝子を凌駕する。どちらかが吸血鬼なら、確実に吸血鬼が生まれる。
しかし吸血鬼の出産率はパンダ並に低く、なかなか妊娠には至らない。
だが、そうして生まれた吸血鬼は強い。
途中から吸血鬼になった者とは、意図的にしろ偶然にしろ、吸血鬼の血を飲んだことで、吸血鬼になった者のことだ。
しかし必ずしも全員がそうなるわけではない。吸血鬼の血は飲んだ者の体に侵食し、それに耐えられない者は苦痛に悶え死ぬ。耐え抜いた者だけが吸血鬼になる。
自分は両親ともに吸血鬼だった。
生まれながらに強い力を持ち、吸血鬼一族の中でも高位に位置する。
だが、純血である彼には、欠点がひとつあった。
人でいうところの偏食。
普通の食べ物でも添加物が入った物が苦手で、オーガニックな食材でないと食べられない。
それは血でも同じだった。
生血など言語道断。精製されたもの。元の素材も厳選されたもので、それも徹底して不純物を取り除いた血でなければ受け付けない。
なのに、今夜、いつものように夜の街を眺めていた時、突然芳しく甘い香りが鼻孔を擽った。
強烈なその香りを辿りやってくると、そこに彼女がいた。
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