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都内の高級ホテルのパーティー会場。
招待客は政財界の大物や、芸能人、文化人、アスリートなど。
会場の中に入ると、「高坂春樹の喜寿を祝う会」という大きな横看板の下に金屏風が置かれ、その前に紋付き袴を着た今日の主役高坂春樹が、椅子に座っていた。
彼のすぐ横には、色留め袖を着た娘の瑞稀が立ち、反対側にはグレーのスーツを着た娘婿で養子の高坂崇が立っていた。その後ろには孫息子の|傑(すぐる)が控えている。春樹の妻照子は、昨年亡くなっている。そして、瑞稀の娘で今年大学進学の彩花が母親に寄り添っている。五人は絵に描いたような理想の家族として、招待客に挨拶していた。
「此度は喜寿の誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます」
その時、入口の辺りが一段と騒がしくなった。
「なんだ? 誰が来たんだ?」
高坂家の全員が入口に目を向けると、人の波を掻き分けて、黒のタキシードに身を包んだ長身の男性が、女性を伴って歩いてくるのが見えた。
遠くからでも王者の風格を漂わせ、まるで野生の獣のように靭やかに力強く歩を進める。
「誰だ?」
「さあ…」
「でも素敵な人」
高坂春樹が崇に尋ねるが、彼は首を捻る。彩花が思わずその際立った容姿に見惚れ、呟いた。
「こんばんは、高坂先生」
人間離れした整った顔立ちをした男性が、壇上の高坂春樹に挨拶をする。
「どなたでしたかな」
「はじめまして、月夜見閨と申します」
「月夜見だと?」
月夜見が軽く会釈して名乗ると、高坂がすっと目を細めた。
「ああ、お名前は聞いたことがあります。かなりの資産家でビジネスめ相当の腕前だとか。面識はありませんよね」
崇が記憶を頼りに、目の前に現れた男の情報を伝える。
「月夜見…あの、月夜見ホールディングスの?」
そんな囁きが聞こえてくる。
月夜見ホールディングスは業績が右肩上がりを続け、彼はカリスマ経営者と褒めそやされても、滅多にメディアに顔を出さず、謎に包まれていた。その姿を初めて見る者も多い。
しかし最初、月夜見に目を奪われた者も、次に彼の横を歩く女性の存在に気づく。
月夜見の肩ほどまでの身長のその女性は、襟ぐりの大きく空け、白から裾に向かって紺色へとグラデーションになった膝丈のワンピースを着ている。
髪をハーフアップにし、黒真珠をいくつも積み上げたチョーカーが人々の目を引き付ける。
「招待客にそのような名前があったか?」
高坂春樹が目を細め、娘に尋ねる。
「いいえ。ご招待はいただいておりません」
瑞稀より先に、月夜見が凛としたよく通る心地よい低音の声で答える。
「ですが、是非お祝いを申し上げたいと思い、馳せ参じました」
「なんだと?」
何とか気を取り直した高坂春樹が挨拶を返す。月夜見の放つ威圧に、彼は只ならぬ者であることをひしひしと感じていた。
政治家として、三十年近い年月を過ごしてきた。その間に、各国の王族や要人と何度も接してきた。
某か人の上に立つ者は、カリスマ性を持っている。自分にもそれがあると思っていたが、月夜見閨には、この場の誰よりも支配者としての資質があるように思えた。
「こんばんは、高坂彩花です。お会いできて光栄ですわ」
頬を赤く染めた彩花が、挨拶に進み出た。彼女は小さい頃から将来美人になると褒めそやされてきた。自分でもそうだと思っている。そんな自分の隣に相応しい地位も財力もあり、見目の良い男性が、いつか現れるのを夢見ていたが、まさに月夜見閨がそうだと思った。
だから彩花は自分の魅力を最大限に発揮し、長い睫をパチパチさせて彼を見上げた。
「…これは私からの誕生日プレゼントです。お酒がお好きと伺いましたので」
しかし月夜見は彩花を振り返りもせず、用意していたシングルモルトウィスキーを差し出した。彩花はあからさまな無視に、むすっとした表情を浮かべ、彼の隣にいる女性を睨み付けた。
(誰よ、この女)
彩花に睨まれ、女性は居心地悪そうに視線を逸らした。
「ほう、これは…先日サザビーのオークションで高値で落札されたものでは?」
「さすがお目が高い。先生のために手配しました」
「え、あの一千万以上で落札されたとおっしゃっていたものですか?」
崇が驚きの声を上げ、ただでさえ注目されていたところに、更に人々の視線が集まった。
「そのような特別なものをいただいてよろしいのですか? そこまでしていただくとは、失礼ですが、一体どういう…」
大盤振る舞い過ぎるプレゼントに、貢ぎ物に慣れているさすがの高坂も怪しんでいる。
「実は、今日ここに来た目的は、彼女の為なのです」
「え?」
高坂春樹はその時初めて、月夜見の傍らにいる女性に目を向けた。
最初からそこに居たが、月夜見の圧倒的存在感に隠れて影が薄かったのだ。
「その女性は?」
「私の花嫁になる女性です」
「花嫁ですと!?」
「花嫁!?」
高坂たちの声に、会場にいた女性達の中から悲鳴が漏れた。
「さあ、雪緒」
「はい」
月夜見に優しく背中を押され、女性は一歩前に進み出た。
「は、はじめまして、日向雪緒と言います」
「日向?」
彼女が名乗ると、瑞稀と崇の表情が強張った。
「どうした、知り合いか?」
高坂が二人の様子に違和感を感じて問いかけた。
「いえ、別に」
「そうです。その、昔の知り合いに同じ姓の者がいたので」
瑞稀と崇の二人がごもごもと呟く。
「きっとそれは私の母です。昔、二十年ほど前に先生の事務所でアルバイトをしていたそうですから。日向奈緒と言います」
「な」
「何ですって!」
「ほう、そうなのか。覚えていないな。傑が生まれた後だな」
驚く娘夫婦とは逆に、高坂春樹は本当に覚えていないのか、首を傾げる。
「お前達は覚えているか?」
「わ、私が二十年も前のアルバイトのことを覚えている筈がないでしょう」
「そうか。君はどうだ? あの頃事務所の運営は君がやっていただろう」
否定する娘から娘婿に彼は顔を向ける。
「短期の者もいて、入れ替わりも激しかったですから…」
「それは仕方ないな。すまない。何分昔のことで」
「そうですか。でも、彼女の母親はそうじゃなかったようですよ。田舎に戻って彼女を産んだあと、癌になりまして、その時こんな手紙を送っていたようです」
月夜見が上着のポケットから出したのは、雪緒の祖父の遺品にあった手紙だった。
「大澤崇さんって、あなたのことですよね」
手紙の宛名を彼らに見せると、顔色を変えたのは瑞稀だった。
「そ、そうです。でも…受取拒否? いつそんな手紙を?」
崇の方は初めて見たらしく、戸惑っている。
「そんな手紙、何の意味があるというのです」
手紙を奪おうと伸ばした瑞稀の手が届く前に、月夜見がそれを懐に戻す。
「そうですね。人によっては何の意味も無い。ですが、そう思わない者もいる」
宙を掻いた拳をぎゅっと握り締め、瑞稀が月夜見と雪緒を睨み付ける。
「一体彼は何を言っているんだ?」
高坂は娘の行動の意味がわからないのか、怪訝そうにしている。
「お母さま、どうされたの?」
「瑞稀、どうした」
「変ですよ、お母さん」
「べ、別に…何でもありませんわ」
動揺を取り繕って瑞稀はぎこちない笑みを浮かべた。
「それでは、私達はこれで失礼いたします」
「え、もうお帰りになるの? 来たばかりなのに」
暇を告げた月夜見に、彩花が引き留めるように近づく。すると月夜見はあからさまに顔をしかめ、鼻の下に手を当て一歩離れた。
「臭い」
「え?」
「お祝いを申し上げに来ただけです。プレゼントもお渡しすることができましたので」
彼は高坂春樹から崇へ、そして最後に瑞稀に視線を移す。
「雪緒もいいだろう?」
「ええ。連れてきてくれてありがとう、閨」
「愛しい君の頼みなら、地球の裏側だって、月にだって連れて行くよ」
雪緒の手を取り、その甲に恭しく月夜見が唇を寄せる。
それを見た周りから黄色い悲鳴が上がる。
「ははは、今時の若い人は大胆だね。余程花嫁にぞっこんなのだな」
「特別な|女性(ひと)です。私の命と言っても過言ではない」
雪緒に流し目を向け、月夜見はにこりと微笑んだ。その溢れ出す色気に、彼を睨んでいた瑞稀も一瞬目を奪われた。
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