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仄かな灯りが部屋の中のあらゆる物に陰影を作っているが、黒いシーツが敷き詰められたベッドの上にいる私には、その灯りは届かない。
「雪緒、お前の匂いは俺を狂わせる」
そのベッドの上、仰向けになった私の両手は頭の上に持ち上げられ、大きくて力強い男の右手に掴まれて微動だにしない。
細められた男の瞳が薄暗い部屋の中で、まるで猫の目のように光っている。
そう。彼の目は自ら光を放ち、どんな暗闇でも獲物を見逃さない。
それは彼が、人ならざるものであることを物語っている。
「まだそうやって抵抗出来るのだな。もう少し支配を強めても大丈夫か」
彼がそう言うと、瞳の輝きが更に増すと同時に空気がピリピリと肌を刺し、体が少し重くなった。
「……っ」
胸が圧迫され、私は肺に空気を取り込もうと喘いだ。
「……どうして、もっと力を込めれば、支配できるのに?」
中途半端に意識を残さず、完全に支配すればいいのにと、問いかける。
彼の力なら、一度に何十人もの意識を奪い意のままに操ることなど造作もないことだ。
「雪緒が自分の意思で俺に降伏しなければ、意味がない。強情を張らずに君が懇願して俺のものになると、その可愛らしい口で言えば、楽になるぞ」
完全に意識は乗っ取っていなくても、手足は拘束されている。言っていることと、やっていることが違う。
顔を寄せて、耳元で囁きながら耳朶を甘噛みされ、吐息が吹きかけられる。
「雪緒は耳が弱いんだね」
「や…」
私の反応を見て、彼は楽しそうに言って、耳朶にしゃぶりついたまま、舌を耳穴に差し込んできた。
生温かく湿り気を帯びたざらつく舌の感触に、体を戦慄が走り抜け、思わず声が漏れた。
「甘い…甘い香りだ。さっきより濃くなった」
鼻が利く彼は、10キロ先に居ても人の匂いを嗅ぎ分ける。今は密着しているせいで、微妙な匂いの嗅ぎ分けも出来ているようだ。
「鼓動が速くなった。ドクドクと君の体の中を流れる血の音がよく聞こえる」
彼は耳もいい。私の肌の下に張り巡らされた血管を流れる血の音がよく聞こえるらしい。それだけでなく、味覚、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、五感全てが人の能力を遥かに凌駕している。
身体能力も優れ、身長百八十は優に越えるすらりとした鍛え上げられた強靭な肉体は、音速に匹敵するほど速く移動し、軽く拳を当てただけで、分厚い壁をぶち抜ける力を持っている。
「雪緒の血…どこまでも甘くて、芳しい」
指が首筋を撫で、頸動脈を探り当ると、軽く表皮の上から押してくる。
すぐ耳の近くに口があって、ごくりと唾を呑み込む音が、普通の人間の私の耳に聞こえてきた。
うっとりとした声で囁く彼の言葉にも力は宿っている。鋭い眼光から放たれる力は、体の自由を奪うだけでなく、脳内を麻痺させる。そして形の良い唇から漏れる言葉に、誰もが逆らえなくなり意のままに動く操り人形のようになる。
今のところ彼は私をぎりぎり自我を保てる程度に支配し、体の自由を奪っている。
私が自らの意思で彼に従うと言うのを待っているのだ。
甘美な責め苦に苛まれつつも、何とか耐えてきたが、その抵抗ももはや風前の灯火だった。
「雪緒…早く俺の手に落ちてこい。ひとこと『俺の花嫁になる』と言うだけでいい。そうすれば、富も権力も、俺が持つ全てが君のものになる」
甘い囁きが私の頭の芯に響き、感覚を鈍らせる。柔らかく波打つ明るい髪は顎の辺りの長さで、前髪は軽く右斜めに流れている。
すう〜っと通った鼻筋に切れ長の瞳は、形の良い唇にすっきりとした顔の輪郭。
その美しい男性から求められて、靡かない女性などいるだろうか。
しかも花嫁として望まれ、断る女性がどれだけいるか。しかし花嫁として彼のものになるその対価が何なのかを知れば、躊躇する者もいるだろう。
彼は捕食者で私は獲物。
彼は|吸血鬼(ヴァンパイア)で、私は花嫁と言う名の餌でしかない。
どうしてこうなったのか。
つい数日前までは、私は田舎から出てきたばかりの単なるフリーターでしかなかった。
今は都会の豪華なマンションの一室で、こうして虜囚のように監禁されている。
「雪緒ちゃん、どうしたの、その腕!?」
先輩の藤木さんが私の左腕の肩から肘まである擦り傷を見て、驚きの声を上げた。
時刻は夕刻。
私は清掃会社にパート勤務している。夕方からシフトに入り、今から契約先のビルに清掃に向かうため、出勤してきた人達と一緒に制服に着替えていた。
「来る途中で、自転車にぶつかったんです」
「自転車に…」
「はい、まだ人混みをうまく避けられなくて、他所見をしていて、後ろから来た自転車にぶつかって転んでしまって…」
へへ、と笑う右手にも絆創膏を貼っていた。
「何しろ人の少ない場所に住んでいたので…」
「どこか田舎から出てきたって言ってたわね」
「はい。祖父と一緒に住んでいた村は周りはお年寄りばかりで、過疎化が進んで限界集落って言われていました」
「身内はそのおじいさんだけだっけ」
尾上さんが言った。
「はい」
私は生まれた時から父には会ったことがない。母親は私を未婚で産んだ。家では父について話題になったこともなく、私も何となく聞いては駄目なことなんだと、空気で察していた。その母は私が二歳の時に癌で亡くなった。それ以降私は母方の祖父に育てられた。
父親も死んだと思っていたのだが、祖父が半年前に突然心臓発作で亡くなり、遺品を整理していた時、ある手紙を見つけた。
その手紙の差出人は母だったが、宛名は東京になっていた。
手紙の消印は母が亡くなる一年前くらい。ちょうど癌が発見された頃だった。でも手紙は宛名の相手には届かず、『受取拒否』のスタンプがおされていた。
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